第32話 才気の証明
戦場を支配していたのは、剣戟の名残すらも虚無へ帰すような沈黙であった。
盗賊たちは息を呑み、ひとつも言葉を発することなく、動けずにいた。
ガイウスとアスティが見守る視線のもと、フローラは静かにアデルのもとへと歩みを進める。
彼は依然として沈黙を纏い、剣先をなおもジオラスの首元へ添えたまま動かない。
勝者でありながら、そこに勝利の昂りはない。 歓喜も、誇りも、ただのひと言の勝利宣言すらない。
あるのはただ、内に渦巻く悔恨の色――その表情は、敗北者のように歪んでいた。
フローラはその不自然な様子に一抹の疑問を抱きつつも、まずは彼の負った深手を癒すべく、そっと寄り添う。右の掌に淡い緑の光を宿し、慎重に傷口へと魔力を注ぎ込んだ。
慣れた手つきで、血潮を止めながら骨の状態を探る。
「……うん、骨に浅くひびが入った程度。これなら、わたしでも十分に癒せる。それでも、数日は安静にしておいてね、アデル」
しかし、アデルは返答をしなかった。彼女の優しさ、気遣いは心に届いている。
そうだというのに、彼の顔はますます悔しさに歪み、奥歯をきつく噛み締めていた。
ジオラスはそんな彼の姿を見上げながら、顰めた眉に苛立ちを滲ませた。
(んだよ、その顔は? 不満かよ)
ちらりと視線を滑らせ、アデルの傷を一瞥する。
(不満はあれじゃない。あの傷は、このガキにとっちゃ織り込み済み 。こいつが抱いている不満は……まったく、へへ)
盗賊としての己を忘れ、剣士として相対したジオラスは、アデルが抱く剣士としての不満をよく理解していた。
それは剣を交えた者にしか分からぬ不満。剣士としての、それゆえの悔しさ。
だからこそ、理解できてしまった。ゆえにこそ、鬱陶しくもあった。
ジオラスは腹立たしげに唇を歪め、一言でも、二言でも、何か言い返してやろうとした 。
その時だ――張り詰めていた沈黙の鎖が、不意に音を立てて解けた。
「……まだだ。まだ、終わっちゃいねぇ」
盗賊のひとりが、まるで我知らずといった風に呟き、次の瞬間、掠れた声を振り絞って叫ぼうとする。
「なぁ、ジオラス! まだ、おわってな――」
「――黙ってろ」
低く、重く、押し潰すような声音が、刃よりも鋭く空気を断った。
ジオラスが静かに、だが圧を籠めて発したそのひと言は、鉄槌のように盗賊の口を封じた。
他の盗賊たちも、彼の言葉に逆らうことはできなかった。
ジオラスは、なおも首元に刃を突きつけられたまま、しかし怯むことなく、まっすぐアデルを見据え、 問う。
「『あの瞬間』、お前は何をした?」
問われて、アデルは悔しさを宿していた表情をひととき曇らせる。そして、その面差しから感情を払いのけるように、淡々と応じた。
「あれは、とっさだった。あんたの剣技は、俺の予想を超えていた。だから、とっさに――」
「それじゃあ、だめだ」
「え?」
遮るように放たれたジオラスの言葉は、鋼よりも硬く響く。
「いいか、くそガ……いや、アデル。『とっさに』やら『直感だった』やら、そんなもんねぇんだよ。体が動くときには、しっかりとした理由がそこにあんだ」
「理由?」
「ああ、だから、それをしっかり言語化しろ。言葉にして、自分がしたことを心に刻め。それを文字に起こして、記憶としても刻め。そうすりゃ、お前はもっと強くなる」
「おっさん、あんた……?」
「さぁ、言え。お前が何を思い、何を感じ、何を行ったのかを……。最初からな」
「あ、ああ」
「それとだ、オレはまだ二十七でおっさんじゃねぇ!」
「十分、おっさんな気も……」
「いいから、言え! ほら!」
地に膝をつき、首元に刃を当てられながらも、実に不遜な態度でジオラスは手を振り、アデルに自分が為したことを話せと催促する。
アデルは、すべてを失った男が何を託そうとしているのか、薄らと悟り、彼の声に従った。
アデルは、紡ぐ――――自らの歩みを、思考の軌跡を、才気へと至る、その一歩を。
「初めて、あんたの……ジオラスの剣を受けた時、とても素早く重かった。それはアスティの剣速を超えて、俺の膂力も超えていた。斬撃を受けるたびに剣は弾かれ、構えが乱れ、姿勢を保てないほどに。だけど……」
「だけど、なんだ?」
「四劔輪舞……この技を受けた時、俺はあんたの剣を弾き返せた。そこで気づいたんだ。この技は力を犠牲にして、速度を増してるって」
「チッ、一度受けただけで気づきやがったのか。んで、続きは?」
「二度目の四劔輪舞、さらに速度は増したが、威力はそのまま。あの時、俺が対応できたのは一度受けて、どういう動きになるか予測できたから。アスティが初撃よりも対応できたのは、力に抗わず、受け流す戦い方を選んだからだと思う」
「ああ、そうだな。あの嬢ちゃんは嬢ちゃんでやってくれる。しかも、剣筋に関して言えば、お前よりも読みにくい。その理由は、オレにもわからんがな」
「アスティの剣筋が読みにくい? そんなふうに俺は感じたことは……」
「そいつはどうでもいいから、続きだ続き。二度目のオレ様の奥義で気づいたのは、それだけか?」
「いや、もう一つある。『同時』に襲ってくる四つの斬撃。でも、それは完全に同時じゃなかった。ほんの僅かに、順番があったんだ。順は、上、下、右、左。これは最初の四劔輪舞でも同じだった――と、あの場で俺は、それを思い出した」
ここでジオラスは表情を曇らせた。
それは自身の奥義の単調さ。
その弱点について、彼自身もまた熟知していたからに他ならない。
だが、技のリズムを変えることは、口で言うほど容易ではない。
また、変化などさせなくとも、今まで敵は最初の一撃すら耐え切れずに倒れていった。
だからこそ、彼の奥義はここで進化が止まっていた。
それ以上、進化する機会も必要もなかったから……。
さらに、アデルは言葉を紡ぐ。
「順番がわかれば、あとはどう対応するかを考えるだけ。俺の剣の速度と腕力……それを見極めての限界値は……三刃目の右までしか対応できない。だったら、四刃目はどうするか?」
「どうする気だったんだ?」
そう問われたアデルは、ちらりと二の腕に刻まれた傷へと目を落とし 、ひとつ小さな息を吐いて、こう声に出した。
「前へと身を押し出し、自らの体で受け止める。押し込めば、刃の先ではなく根元で受けられる。剣は、剣先か剣の腹が最も威力が発揮できる場所。根元となれば、威力は半減以下になるからな」
そう、これがアデルが導き出した答え。
三刃目を弾いた瞬間、そのまま体を押し込み、ジオラスの四刃目を剣の根元で受け止める。
己の身を代償とし、彼の懐に踏み込み、自らの剣をもって敵の心臓を貫く――
だが――。
「だけど、予想に反して、三刃目を弾こうとしたときには、四つ目の斬撃がすでに迫っていた。速度もそうだが、威力も俺の胴を薙ぐには十分すぎるもの。そこで俺は――――そうだ、俺はとっさにこう考えたんだ!!」
――三刃目を受けた反発力を利用して、四刃目へ『必要最低限』に、刃を添えようって――
そう、それが『あの時の金切り音』。
才気に達した者にのみ届く、鋼が震え、空気を裂く精妙なる響き。
それは、アデルとジオラス、ふたりの耳の奥にのみ刻まれた音だった。
その微細な響きの余韻を、胸奥に刻み、ジオラスは粛然と問いを放つ。
「なんで、必要最低限だったんだ? しっかり弾いちまえば、二の腕を切らずに済んだのによ」
「そんなことをすれば、あんたはすぐに対応してくるからだ。三刃目を弾いた勢い利用して剣の軌道を変えた時には、俺の構えは乱れていた。手にしていた剣は刃が返り、柄は前を向いた状態。その姿勢で、無理やり俺は、四刃目に剣を当てた」
「それでも、お前なら弾くことはできただろうに」
「ああ。でも、弾けば、すぐにジオラス――あんたは剣を戻し、構えを取り直し、俺の心臓を貫いてきたはずだ。姿勢を崩していた俺では、それに対応できない。だからこそ、必要最低限の力で、四刃目を受けた。ただ刃の勢いを殺し、胴ではなく、二の腕で止めるために…… 」
ジオラスは瞳を細めた。足りぬとばかりに、もう一度問う。
「まだ、あるだろ。もう一度聞く。なぜ、弾かなかった?」
それにアデルは、静かであるが、確かな声で応じた
「……あんたは、この技に絶対的な信頼を置いていた。置いていなければ、三度も使ったりしない。その自信を心に感じた俺は、ジオラス――あんたを信頼した」
「信頼、だと?」
「俺が刃を小さく当てた時、四劔輪舞の四刃目はまだ生きていた。剣の先、剣の腹で振り抜かれれば、俺の胴を両断できる。だから、あんたは自分自身を信頼して、自分の剣速を信頼して、今まで積み上げたものを信頼して、刃を戻さず、振り抜くことにした! 俺が『前』へ出る速度よりも早く、剣が届くと、信じて!!」
もし、アデルが完全に四刃目を弾いていれば、ジオラスは即座に剣を引き戻し、突きを放ち、体勢を崩したアデルの心臓を一突きにしていただろう。
だが、弾かずに――威力と速度をわずかに殺す程度の刃当てにより、ジオラスの選択肢は分かたれた。
――戻すか・振り抜くか――
四劔輪舞――それは魂と誇りを籠めて練り上げてきた、自らの信条であり、矜持であった技……当然、振り抜く! 振り抜くに決まっている!!
ジオラスはか細い笑いを立てて、ぽつりと呟く。
「へっ、オレ様の奥義どころか、心まで見切られちまっていたのか……大した男だぜ。最後に……オレを殺さなかった理由は?」
「俺の構えは乱され、刃は自分に、柄は前に返っていた。ここから刃を切り返そうものなら、あんたに体勢を整えさせる時間を与えちまう。だから俺は、柄をそのまま前へ突き出した。柄頭で、あんたの鳩尾を打ち抜く以外になかったからだ」
「打ち抜く以外、ね……」
低く呟きながら、ジオラスは揺れる暗灰色の瞳を地面へ落とした。
その視線の先には、アデルの左足が地面を踏みしめた跡が、深く刻まれていた。
(柄を打ち出す瞬間、地を踏みしめ、素早く重心を落とし移動させることで、体重と速度の力を柄頭の一点に集めてやがる。ガキの癖に、剣術だけじゃなくて武術もしっかり修めてるとはな。へへへ、ったくよ、本当にムカつくぜ。本物様はよ)




