第31話 アデルの真価
アデルは足の指先をわずかに動かし、音もなく、じりじりとジオラスとの間合いを詰めてゆく。
それは地を這う蝸牛よりも緩慢で、静寂の中にあって、風の壁をじわりと押し広げていくかのように、極めて緩やかなものだった。
ジオラスは清廉な剣気を纏う少年アデルを暗灰色の瞳の奥底――魂の核と呼ぶべき深奥にまで焼きつかせながら、心の内にて激しい否定を繰り返す。
(このガキが本物? 本物だと!? ありえねぇ、認めねぇ――それだけは絶対認めたくねぇ!!)
胸の奥深くに封じ込めていたはずの過ぎ去りし光景が、ひときわ鮮烈な色をもって、彼の中で甦る。
――――十七年前
ジオラスがまだ十の齢を数えるばかりの頃、彼の暮らしていた村は、突如として盗賊どもの襲撃に遭った。
家々は業火に呑まれ、財は奪われ、尊厳は凌辱され、命もまたあまりに容易く残酷なまでに壊されていった……。
その地獄の只中に、一人の剣士がふらりと現れた。
百を数える盗賊たちの群れを、容易く斬り伏せ、打ち滅ぼす。
その身に纏うは返り血――着衣すら紅に染め抜かれた姿は、まさしく修羅 。
あまりに圧倒的な強さとその出で立ちに、村の者たちは感謝よりも先に、畏怖という名の沈黙を纏う。
だがその中で、少年ジオラスは勇気をもって、こう問いかけた。
「あ、あの!」
「ん、なんだ、少年?」
「ぼ、ぼくも、あなたみたいな剣士になれますか!?」
その問いに、剣士はわずかに笑みを浮かべると、穏やかな手つきでジオラスの頭に触れ、優しく撫でた。
「さぁな。だけど、お前が『本物』なら何にだってなれるさ」
「本物?」
剣士は撫でていた手を拳に変えて、少年の心の中心を、軽く、とんと打つ。
「ああ、本物だ。お前の心……偽りのない心あるならな。夢のために、自分に嘘をつかず歩み続ければ、誰だって『本物の男』になれるんだ」
――――情景は掻き消え、残酷な現実へと還る。
ジオラスは心の中で、拭いようのない悔恨と涙を滲ませる。
(……オレは、あの人のように誰かを助けたかった。そのために腕を磨いて、学び、這い上がろうとしたってのに! このざまだよ!!)
ジオラスは、己自身への苛立ち、アデルという少年に対する妬心と僻心――それらが混然となった眼光を閃かせた。
(冗談じゃねぇぜ! こんなところで、こんなガキに負けるようなら……オレの人生は一体なんだったんだよ! このガキの、こいつの……『本物』の踏み台になるために生きてきたってのか、オレは!! くそ、くそ、くそっ!!)
憎しみの矛先を少年に向けようとも、否定の叫びを幾度心の中で反芻しようとも――それらのすべてを、静かに、しかし確かに打ち消す、胸奥に囁く声がある。
それは、言葉にはならぬが、真に響く声――
――彼は本物である、と――
ジオラスは舌打ちを一つ鳴らし、低く、感情を押し殺した声を放った。
「チッ……おい、ガキ」
「なんだよ?」
「年はいくつだ?」
「十五だが?」
「くそったれ、ほんとにガキじゃねぇかよ――名は?」
「アデル」
「アデル、か……その名前、しっかり覚えといてやるぜ。墓標に刻むためにな……」
そう言葉が口から離れた瞬間、戦いの幕を引き裂くように、いたずらな風が舞い、一枚の木の葉が空よりひらりと落ちて、アデルとジオラスの交差する視線を遮った。
アデルは大地を蹴り上げて、迷いなく、前へと翔け出した。
対するジオラスは、剣を水平に構え、己が技量の粋を集約させた、渾身の一閃を放たんとする。
風の音すら置き去りにし、練り上げ、積み上げてきたすべてを賭した、最速にして最強の剣技――!!
「四劔輪舞!!」
その斬撃は、まるで四方に舞う剣の舞踏。
風が吼え、空気が裂け、時さえも一瞬凍りつく。
その凍えを前に、アデルは狂気めいた笑みを唇の端に浮かべつつ、心の奥底で静かに数を刻む。
(一つ!)
頭上から襲い来る一閃を刃で弾く!
(二つ!)
足元より跳ね上げる斬撃をこれまた弾く!
(三つ!)
右方より薙ぎ払われる一撃を――っ!?
…………アデルは自身の力量と、ジオラスの奥義を秤にかけ、その現実を冷静に見極めていた。
四つに分かたれた死の刃。
そのうち三刃までは対応し、凌ぎ得ると確信していた。
されど、最後の一刃がどうしても届かない。
届かなくてもいい――届く前に駆け抜けるつもりでいた。
だが、しかし、ジオラスの放った奥義は、この三度の中で最も鋭く、速く、それはアデルの予測を越えていた。
だが、本物とは――予測を凌駕されたその瞬間にこそ、真価を示すもの!!
――キンッ
と、小さな金切り音が空気の中にひとつ、染み渡るように鳴り渡った。
それはアデルとジオラスにしか届かない、小さな小さな奏音。
だが、これこそが、アデルがこの極限の間際において放った才気の証明。
彼がジオラスに見せつけた、本物の男としての短き奏楽であった――!
己の腕に努力など無き者であれば、この音を前に、迷いを見せたであろう。
しかし、ジオラスという男は、この奥義に全てを注ぎ、己の誇りを宿していた。
だからこそ、彼もまた躊躇うことなく、押し通す!
「クソガキがぁぁぁあぁッ!!」
「うおおおおおおおおおお!!」
怒号と咆哮が重なり、魂と魂がぶつかり合う――――。
「ぐはっ……」
呻き声が一つ、静寂の中に溶け入り、やがて露と消える。
間もなく、血の雫が草叢に、ぽたり、ぽたりと零れ落ち、沈黙に生々しき現実を刻む音を添えた。
アデルが防ぎ切れなかった四つ目の刃は――――彼の二の腕に食い込み、深々と肉を裂いていた。
傷口を一瞥し、アデルはその激痛に顔をわずかに歪めながらも、唇の端に冷ややかな笑みを浮かべる。
――刃は肉を断つとも、骨を断つことは能わず――
夜空を舞う風は、ひとしき翻り、次第に一点へと収束していく。
そこにあったのは、アデルの渾身の一撃――――。
柄を固く握りしめ、突き出した柄頭がジオラスの鳩尾深くに食い込んでいたのだ。
ジオラスは握り締めていたはずの剣を指先から零し、両手を腹に当てて屈み込み、胃の中のものを激しく地へ吐き出した。
アデルは柄を返し、無言のまま、地に膝をついたジオラスの首元へ、そっと刃を添える。
ただ、静寂の中に、風が鳴る音だけが響く。
盗賊たちはこの結末を予想していなかった。そうなると思ってもみなかった。
あり得ない現実を前に、言葉が生まれない。
いや、二人の剣士が交差した先に、何があったのか見えなかったため、理解が及んでいないのだろう。
ガイウスはアデルの見せた片鱗に戦慄し、冷や汗を背に走らせる。
(見事だ、アデル。あの刹那、第四の刃により、胴を真っ二つに断たれているはずだった。その運命を、己の剣と技と閃きによって切り開いて見せた!)
フローラは、アスティやアデルほど武の才に恵まれていない。
そのため、アデルの見せた真価の一端を掴み切れずにいた。
だから、隣に座るアスティに尋ねるのだが……。
「あーちゃん、いまのって……」
「……ふむふむ、あの技、なるほど。だとしたら、ああやれば……私なら、うん」
「あーちゃん?」
「あ、ごめん。どうしたの、フーちゃん?」
「いえ、何か考え事をしていたみたいだったから」
「ああ、うん。アデルとジオラスって人の戦いをじっくり観察して、あの奥義の構造と破り方を解いたところ」
「解いた?」
そう問いかけるが、アスティはアデルの真価に心を奪われ、言葉が耳に届いていない。
「まったく、アデルも無茶する。三つ目の瞬間を見たときは、全身の総毛が立っちゃったよ。っと、それよりもフーちゃん、アデルの治療を。あの深さだと、骨まで届いているはずだから」
「あ……うん、そうだね。それじゃ、行ってくる」




