第6話 微笑み
――――草原をひた走る
体を上下に揺らさず、空飛ぶ鳥が翼を広げて滑空するように駆け抜けていく。
その途中、赤ん坊はぐずり、泣き始める。
足を止め、おしめを確かめる。
濡れてはいない。腹が空いたのか?
母乳を分けてもらった村の女性たち曰く、この子はおそらく生後三か月程度ではないかと。
この頃の赤ん坊は消化器官が未熟で胃も小さいため、食事をこまめに与えなければならない。
一日六~八回ほど必要だそうだ。
毛布を折り重ねた柔らかな即席ベッドを作り、赤ん坊を寝かせて、荷物を下ろす。
おろした背嚢は俺の背中を覆うほどの大きさはあったが、そこに俺の私物はほとんど入っていない。
代わりに、大量のおしめと母乳を保存した水筒たちが大部分を占めていた。
その背嚢から水筒の一つを取り出して、人肌に温めるとしよう。
赤ん坊の方は横になったままこちらに顔を向けて、俺の作業を興味深げに見ていた。
先ほどまで泣いていたというのに。
それにまだ、はっきりと物が見える月齢ではないと思うが?
それでも、なんとなく自分の食事を作っているのがわかっているとか?
いや、それはないか。
おそらくだが、そばで動いているものに反応して、一時的に空腹よりも好奇心が上回ったのだろう。
赤ん坊は太陽のように輝く黄金の瞳をぴたりと固めて、じ~っと俺の顔を見据える。
俺はなんとなく微笑んだ。
すると、赤ん坊も微笑みを見せる。
「しっかり見えてないはずだが、笑顔を感じ取った? こちらの目や口などの動きに反応をしているってところか。それにしても、このくらいになると笑えるんだな」
もう一度、俺は微笑む。
赤ん坊はさらに微笑みを見せて、なんだか楽しげな様子を醸す。
自由に動けず言葉も発せず視界もはっきりしない赤ん坊にとって、自分の感情を伝えることのできる表情は、とても大切なコミュニケーションツールのようだ。
少ない意思疎通の手段であるが、その思いは絶大。
この子の微笑みを見ていると心が温かくなり、俺もまた楽しげな思いに満たされていく。
「不思議だな、赤ん坊と言うのは……」
ただ、そこにいるだけで、戦いに荒んだ心が癒されていく。
「だが、そうでもない者たちもいる……」
母乳を温めている炎の揺らぎに映るは、過去の情景。
盗賊たちに襲われ、老若男女問わず、赤子さえも命奪われ、打ち捨てられた村。
「同じ心を持つ存在なのに、捉え方が違うのは何故だろうか……って、なにを? らしくねぇな」
この子の持つ不可思議な魅力に心を奪われた俺は頭を軽く振り、温まった母乳の入った水筒を頬にあてる。
「ふむふむ、人肌くらいかな? こいつを陶器の水差しに移して、飲み口に清潔な布巾を薄く広げてあてる、と」
俺は赤ん坊へ近づき、抱え上げて、ずり落ちぬように気を付けながら先ほどの水差しを持ち上げ、そっと赤ん坊の口へ添えた。
すると赤ん坊は、布巾にしみ込んだ母乳をチュウチュウと吸い始めた。
心なしか、ご機嫌のように思える。
「ふふふ、美味いか? お前がもう少し大きくなると匙でも問題ないらしいが、今はこれで我慢してくれ」
母乳を吸い続ける赤ん坊から伝わる温もり。小さな手。無垢な好奇心に満たされた瞳。純白な微笑み。
世界に産み落とされた一粒種。
尊く、守るべき存在。
誰もがここから始まる。
だが、やがては様々な道を歩み、数多くの岐路に立ち、己を形成していく。
その形がどのようなものになるかはその者の資質と……関りを持つ者たち次第だろうか。
取り分け、親は大きな責任を負うことになる。
母乳を飲み続ける赤ん坊に見つめられて、俺は瞳に迷いを映す。
(もし、この子を預けられる場所が見つからなかったら、俺が面倒を見ることになる。俺は責任を背負えるほどの男なのだろうか? 背負えるのだろうか?)
世界を知るために旅に出て、失った友との誓いを果たすために勇者となった。
もちろん、勇者となって多くを救ってきた自負はある。
だが同時に、自身の両手は血に染まり、足元に臓腑が散らばる道を歩んでいる。
もしかしたら、救うよりも奪うことの多い道だったのかもしれない。
――そのような男が……。
「ふぎゃ……」
「え?」
「ふぐ、ふぎゃああああ!」
「おいおいおいおい!? なんで泣く?」
先ほどまで機嫌良く母乳を飲んでいた赤ん坊が大声をあげて泣き始めてしまった。
俺は自身の体を小さくゆすり、赤ん坊をあやす。
「よしよしよ~し、ほら、ほら、泣き止んで。何も怖いことはないぞ~。べろべろば~」
俺は馬鹿げた顔を見せて、何とかご機嫌を取ろうとした。
すると、赤ん坊は黄金の瞳で俺の翡翠色の瞳をじ~っと見つめ、次にはキャッキャとした笑いを見せた。
「ふぅ~、泣き止んだ。しかし、なんで突然?」
泣く直前、俺の瞳を見つめていた赤ん坊……。
「まさか、俺の不安を感じ取った? 勘のいい子だ。これからはこの子の前で弱気は見せられねぇな、フフフ」
純真無垢な瞳の前に、俺の迷いは誤魔化せない。
落ち着いた赤ん坊を縦に抱き、頭を俺の肩に預け、背中に手のひらを添えて優しくトントンとしてあげる。
しばらくしてかなり大きめの「げふぅぅ~」という音が出た。
それだけ空気を飲んでいたのか? 授乳以外で食事を与えると空気を飲み込みやすいそうだしな。
そのまま10分ほど抱いたまま、様子を見る。
母乳の催促も、苦しげな様子もない。目がとろんとして眠気が来ているようだ。
俺は赤ん坊を紫色のおくるみに包み、紐状の部分を作り、首からかけて赤ん坊を抱く。
「さて、眠りの邪魔にならないように慎重に走らないとな」
東方領域へ向かい、走る。
その間に何度も歩みを止めて、母乳を与え、ぐずがる赤ん坊をあやし、おしめを替え、水魔法を使って汚れたおしめの洗濯を行う。
体力に自信のある俺だったが、これをもし毎日繰り返すとなったら、かなりの気力が必要だ。
「俺のおふくろも大変だったわけだ。赤ん坊を知って初めて知る苦労だな。当時はばーちゃんが生きてたから助けてもらってたんだろうけど、それでも大変だっただろうな。これが一人暮らしとかだったら……考えたくもねぇ」
走りながら、洗い終えた衣服や食器類のことを考える。
「俺は水の魔法が使えるからいいが、本来だったら洗濯のために井戸や川を探さないといけないし……ふむ、赤ん坊を連れての長旅ってのは無理があるな。早いところ東方領域の最東端へ向かわねぇと」




