第9話 異界の侵略者
リリス――勇者クルスの幼馴染であり、彼を支える稀代の魔法使い。
彼女は常にクルスよりも一歩前を歩むような、陽気にして奔放、天真爛漫な少女だった。
例えるならば、アデルを少女として具現化したような存在――そう、記憶していた。
しかし、いま、目の前に佇む女性からは、そのような面影は微塵も感じられない。
大きく円を描いていた紫色の瞳は、今や疲労に細められ、眼下には深き隈が沈む。
十四歳の頃に垣間見えた大人びた艶やかさはどこかへ消え失せ、代わりに濁った空気が彼女の周囲に滲んでいる。
雅やかに波を打っていた長き三つ編みの青髪は疲労にほつれ、乱れが目立つ。
表情からも生気は失われており、二十九歳の女性とは思えぬくたびれた印象を受けた。
それに反し、彼女の纏う衣装は若さを感じられるもの――くびれを強調するピンクと黒の格子柄の服。その上から重ねた青と黒の入り交じるコートは、戦う者の風格を宿す。
足元には黒の膝丈ブーツ。そして左手には、魔法を増幅するランプが握られ、橙色の魔石がほのかに輝く。
衣装が語る若さと、彼女自身が放つ陰りとの間に乖離があり、それは妙な物悲しさを誘っていた。
クルスは血に濡れた傷口を押さえながら、声を搾るようにリリスへと言葉を紡ぐ。
「リリス……治療を。君がいれば、まだ――」
「クルス、傷が深すぎます。ここは退きましょう」
「馬鹿な! うぐっ……あの人は裏切り者で――」
「魔族の娘を子として迎えた。だけど、それはジルドラン様の意志ではなく、騙された結果という可能性もあります。ここは説得が要。最良の結果は、再びジルドラン様を迎え入れること。違いますか?」
淡々と語る声音には抑揚がなかった。だが、その一音一音に込められた意志は明確。
それはクルスに有無を言わせないという静かな圧力。
受け取ったクルスは抗うことなく、リリスの言葉に頷いた。
「……わかった、君に従おう」
「ご理解に感謝を。では、治療のために、クルスにはひと時の休息を……」
リリスが小さく呟くと、癒しの魔法が淡い緑の光となってクルスを包む。眠りの魔法とともに……。
クルスはそれに疑問を呈しようとしたが……。
「なぜ、ねむり、の……」
最後まで言い終えることなく、彼は深き眠りへと誘われていった。
健やかな寝息を漏らす彼を、リリスは闇の衣に包み、どこかへ送る。
一連のやり取りを黙って見守っていた俺は、彼女へ話しかける。
「不思議な魔法だ」
「失われた古代の闇の術式です。通常の転送魔法よりも魔力消費が少なく、体への負担も軽減されますから」
リリスはゆらりと体をこちらへ向けて、暗影を帯びた紫色の瞳にうっすらと涙を浮かべた。
「ジルドラン様、再びお会いできたこの幸運に感謝を。アルダダス様のおっしゃった通り、あなたは失われていなかった。あなたがいれば、何かが変わるかもしれないという期待が、アルダダス様にはある。もちろん私にも……」
「アルダダス、か。懐かしい名だ……リリス、いつから見ていたんだ?」
「最初からです」
「それは……気がつかなかった。もし、お前がその気なら今頃俺は……」
「いいえ、私がそのつもりでしたら、きっとジルドラン様はそれを察知していたしょう」
「ふふ、どうだかな。腕を上げたようだな、リリス」
「経験を積みましたから……本当は、もっと早く止めに入りたかったのですが、そのタイミングが難しく……」
リリスはふと黙り、俺の姿を足元から頭の先までさっと見つめた。
そして、彼女の目が俺の目とかち合うと、口角を上げて不敵な笑みを生む。
そこには、現在の俺の力量を見極めたかったという節が見え隠れしている。
(はぁ、アルダダスの名を含め、この様子だと、俺に厄介事を押しつけようとしてるんだな)
正直、こっちはアスティの母親探しを優先したいという思いがあるので、話など聞きたくないんだが……とは言うものの、リリスの姿といいクルスの変貌ぶりといい、さすがに知らぬ顔もできまい。
「……で、わざわざ二人きりになって何の話をするつもりだ? 期待とは?」
リリスは静かに瞳を閉じ、小さな深呼吸を見せる。
そして、瞳を開けると、意を決したように告げた。
「信じていただけないかもしれませんが――現在、この世界は異界からの侵略を受けています」
思いがけぬ言葉――――異界からの侵略。
レナンセラ村にて、村長リンデンからも同じことを伝えられていた。その備えも行っていた。魔王ガルボグの遺志を中心に……。
そして今、リリス及びアルダダス――言うなれば、人間族もまた異界からの侵略者を示唆し、その存在を認めているということ。
俺は短く返事をする。
「ふむ、なるほど」
「そのご様子だと、ご存じのようですね」
「ああ、小耳に挟んだ程度だが。だけど、お前の言葉で、より一層現実味が増してきたよ」
「ご存じならば話が早い。どうか、力添えを願えませんか?」
「具体的には?」
「現状、異界の脅威を認識できている者は、アルダダス様を中心とした数名程度。到底、抗うことのできない状況です」
「国王陛下は?」
「恐れながら、取り込まれてしまいました」
「取り込まれた?」
「同様に、クルスもまた……」
「クルスも?」
「異界からの侵略者は二種類存在します。一つは、私たち人の姿に似た者。もう一つは、本来の姿である昇華生命体としての光の姿」
「昇華生命体? つまり、実体のない精霊みたいな存在ってことか?」
「そう捉えても問題ありません。ただし、あの者たち精霊とは違い、悪意に満ちてますが。彼らは私たちの心に憑りつき、侵し、狂わせる。陛下もクルスも、多くの貴族たちも……そして、魔族たちさえも」
「心に……なるほど、それでか」
人間族と魔族の狂気を超えた争い。その根にあるものは、異界の者たちによる『心』への悪さだった。
そこから見えてくるのは……。
「異界の侵略者は、俺たちを手強い相手……と、見ているんだな」
「さすがですね。これだけの情報でそこまで分析されるとは」
侵略者は俺たちの心に憑りつくという厄介な相手。そして、憑りつくことで人間族と魔族を激しく争うように誘導している。
裏を返せば、両者に手を組まれことを懸念しているという証左でもある。
そうなれば、侵略が難しいと考えているからであろう。
だから、互いに争わせ、疲弊したところで本格的な侵略を行う腹積もり。
「俺たちを脅威に見ているなら、一丸となれば勝機を見出せる可能性もあるわけだ」
「はい、そう考えております」
「だがな、人間族と魔族の共同戦線……それは実現不可能に近い話だぞ」
「ええ、これは夢物語に等しい。ですが――魔族の少女を娘として迎えた勇者の姿を見て、僅かですが希望を見た気がします」
「それ、すっごい小さい希望だぞ」
「それを大きく育てるのが勇者の務めでは?」
「俺はもう、勇者じゃないんだが。ま、これについて問答をしても仕方がない。話を戻すが……心に憑りつくことのできる存在ってのは厄介だな」
クルスの狂気を正気として、心の中心に据えた行動。
偏った思想に行き過ぎた行い。
それらは全て、異界からの侵略者に心を侵された結果。
あのような強者であっても、心を侵食されてしまうとは……もし、世界の主だった面々の心を操られてしまったら、戦わずして負けてしまう。
果たして、どれだけの人間が憑りつかれ、誰が憑りつかれているのか?
ここでふと、クルスや暗部の五人から湧き出ていた、あの黒い煤のようなものを思い出した。
「もしや、憑りつかれた者からは、黒い煤のようなものが出てたりするのか?」




