九百十 結人編 「謝ったら負けだ!」
『結人くんの身近な人で誰が一番苦しんでるのかな?』
僕の言葉に、結人くんは呆然と周りを見回した。そして、さっきまでの怒った顔とはまったく違ってる、泣きそうな表情になっていた鷲崎さんと目が合ったのが分かった。
その瞬間、彼の体がビクッとなったのも見て取れた。結人くんの中で何かが激しく動いてるかのような。
さらには、十分な明るさがないからはっきりとは分からないけど、彼の顔が真っ青になってるような感じもある。
しかも心なしか震えてる……?。
この時、彼の中でどんな葛藤があったのか、僕には分からない。だけどそれは少なくとも彼にとってはとても大きな衝撃だったんだろうなとだけは分かる気もした。
それだけじゃない。彼の表情がみるみるあどけないそれになっていってるのも分かってしまった。それまでの、
『隙を見せたら喉元に食らいついてやる!』
的な、野生の猛獣にも似た危険さも感じさせるものだった彼の姿はどこにもなかった。そこにいたのは、ただ、不安そうに助けを求める目で僕を見る、普通の子供だった気がする。
だから僕は、応えたんだ。
「こういう時はやっぱり、『ごめんなさい』かな。それが一番確実だと思うよ」
「……」
だけど、僕の言葉に、結人くんは視線を泳がせていた。彼の中の惑いがそのまま表れていたんじゃないかな。
『謝ればいいのは分かってる。でも、それで許してもらえなかったら……?』
彼がまだ、やっと言葉を喋れるようになった頃にはきっと、大人から理不尽な暴力を受けて、その度に『ごめんなさい!』って言ったと思う。
なのにそれは聞き入れてもらえなくて、もっと酷い暴力を受けたりもしたんだろうなって簡単に想像できた。
その時に、彼はどう思ったんだろう……?。
『謝ったって許してもらえないのなら、もう二度と謝るもんか!』
そんな風に考えてしまったとしても、何も不思議はないんじゃないかな。
僕は、今、『大人』として、大人が先に間違ったことしてたのに子供がそれを見倣ってしまったのを責めるのはおかしいと思うようになってる。先に生まれた方が先に間違ったことをしたのなら、その影響を後から生まれた方が受けてしまっても、それはむしろ当然のことだと思うようになってるんだ。
だから結人くんがもし、ここで謝らなかったとしても、彼に、
『謝ったら負けだ!』
と思わせてしまうような悪い手本を見せたのは大人の方なんだから、彼を責める気はなかったんだ。
そうして彼が戸惑っていると、先に謝った人がいた。
「私が余計なことをしてしまって鯨井くんが怒られることになってしまって、ごめんなさい」
沙奈子だった。沙奈子が、鷲崎さんの前に歩み出て、深々と頭を下げて謝ったのだった。




