九百七 結人編 「私、平気だよ」
「沙奈子ちゃん!」
そう叫んだのは鷲崎さんだった。
「沙奈子ちゃん!!」
喜緑さんの声もする。でも僕はまず、沙奈子の様子を確かめた。
「頭は痛くない?。腕とか足とか、動かないところはない?」
「うん…、大丈夫……」
僕を見詰める目に、しっかりとした意志の力が見えた。どうやら大丈夫だと実感できて、僕もホッとした。
だけど、
「え!? なに!?」
「沙奈子ちゃん、どうしたの!?」
という声も聞こえてくる。見ると、秋嶋さんたちが自分の部屋から出てきて覗き込んでいるのが分かった。
そんな中で、結人くんは、呆然と沙奈子を見下ろしながら立ち尽くしてた。アパートの照明を背にしているからはっきりとは分からないけど、たぶん、『顔面蒼白』って感じだろうな。
その結人くんに対して、強い視線が向けられているのも察せられた。
非難の目だ。結人くんが沙奈子を傷付けたと思ったんだってすぐに分かった。
それを受けながら、結人くんが歯を食いしばるのが見えた。
と同時に、
「大丈夫だよ、お父さん。ちょっとすりむいただけ」
『お父さん』とは言いながら、まるでその場にいる全員に聞かせようとするかのような、少し大きめの声。
沙奈子だった。沙奈子がスッと立ち上がり、ぐるっと周囲を見回した上ではっきりとそう言ったんだ。いつものこの子には見られない。
いや、そうだ。これは、発表会の時の沙奈子だ。舞台から会場の端まで届く声をちゃんと出していたこの子の姿だ。
だから僕もはっきりと声を出しながら、みんなに聞こえるように、
「そうか。頭は痛くない?。気分は悪くない?」
と、改めて聞いた。というか、聞かせた。
すると沙奈子も、舞台の上でお芝居をするかのようにはっきりと大きく頷いたんだ。
途端にその場に、ホッとした空気が広がるのが感じられた。
だけど……。
だけどそれでも、結人くんへの強い非難の気配はなくならなかった。
「結人!。あんた自分が何したか分かってるの!?」
強い叱責の声。
鷲崎さんだった。鷲崎さんが、僕が今まで見たことのない表情をしながら階段を下りてきて言ったんだ。
「……!?」
それを耳にした瞬間の、鷲崎さんに向かって振り返った結人くんの表情。
僕は、それも一生、忘れられないんじゃないかって思った。
泣きそうな、縋るような、悲しそうな表情だと僕には見えた。
それがすべてを物語ってると感じたんだ。
そこに、
「鯨井くん、私、平気だよ。わざとじゃなかったんだもんね」
この場には不釣り合いなくらいに穏やかで、柔らかい。だけどはっきりと通る力のある声。
沙奈子が真っ直ぐに立ち、真っ直ぐな視線を彼に向けて、そう言ったのだった。




