八十 沙奈子編 「可愛」
沙奈子に行ってらっしゃいのキスをしてもらったことで僕はいつになくテンションが高くなってるのを感じてた。だからって鼻歌歌ったりするとか誰彼構わず話しかけるようなことをするほどじゃないけど、確かにいつになく視界がクリアな気がした。
それでも英田さんの机を見ると胸が詰まる感じはしてしまう。当分これは治らないかな。でもそれは仕方ないかもしれない。
仕事を始めると、いつもはエンジンがかかるのに少し時間がかかる感じだったのが、今日は最初から調子よかった。これも沙奈子のキスのおかげなのか。我ながら単純だなと思った。だけど仕事がはかどるのはやっぱり助かるな。昼までだけでも、いつもよりかなり早いペースで仕事が進んでいた。
昼休憩に社員食堂に行くと、また伊藤さんと山田さんが先に来てた。昨日と同じように伊藤さんは髪をアップにして、だけどサイドテールっていうのかな、やや横の方でまとめてる感じだった。山田さんは髪にかかってたウェーブがかなり取れてきて、ストレートに近い感じになってた。そうか。元々はそういう感じだったのを強くウェーブをかけて友達のそれに似せていたっていうことか。
でも、マシンガントークの方はすっかり以前のそれに戻ってた。はっきり二人の区別がつくようになってきたからそのやり取りがまた楽しげに見えた。僕はまだついていけないけど、見てるだけで気持ちが和んだ。以前の二人の見た目は、正直言ってケバいとまでは言わないにしてもちょっといかにもファッションに気合入れてますって印象で、やや派手かなと感じてた。ということは彼女たちの友達がそういう外見だったっていうことになるんだろうな。
どういう友達だったんだろうと頭をよぎる。彼女たちが再現してた外見だけ見たら派手そうな人っていう感じはしてしまうものの、二人の話を聞いた後だと、たくさん辛いことを抱えた自分を鼓舞するためにわざとそうしてたんじゃないかなって思ってしまった。明るくて元気だったっていうのも、自分の気持ちを上げていくためにそう振る舞ったのかもしれない。そうしないといられなかったのかなって。それも僕のただの想像にすぎないのは事実だけどね。
沙奈子は大きくなったらどんなファッションをするだろう。今の感じだとストレートの大人しめの山田さんパターンかな。でも今朝のキスのこともあるし、意外と分からないぞ。伊藤さんみたいに髪をアップにしてアクティブ路線ってこともないとは言えないかも。
そう言えば、僕が夢で見た50年後の沙奈子らしい女性は、いかにも年配の女性っていう感じの緩くウェーブした髪だった気がする。いずれはそういう落ち着いた感じになっていくとしても、若いうちは少しくらいファッションとかを楽しんだっていいと思う。本人がそういうのに興味を持つのなら。
でももし、ケバい感じになったらどうしよう…。うん、けどまあ、本人がそうしたいって言うのなら、受け入れてあげたい…な。僕はちょっと苦手かもしれないけどさ。おすすめはしないし。
そんな未来のことをあれこれ想像してる僕と、世間話をすごい勢いで話しまくる二人と、ぜんぜん噛み合ってないのになぜか同じ空間を共有してる感じが、客観的に見るとなんだかおもしろいっていう気がしてしまう。他人から見ると、すごく奇妙に見えたりするのかな。もっとも、他人に興味を持たない人が多い感じのこの会社だと、案外、誰も気にしてないかもね。それはそれでいいか。
二人からもなんだか元気をもらった感じで昼からの仕事を頑張る。沙奈子のことも思い浮かべながら、彼女のために頑張る。でもふと気が付いてしまった。今朝、沙奈子は行ってらっしゃいをキスをしてくれた。もしかしてこれは、おかえりなさいのキスもある?。そんなことを考えてしまって、急に照れ臭くなってしまいながらも、順調に仕事を片付けた。さすがに残業なしとはいかなかったものの、昨日よりさらに早く終われそうな予感はした。
ああでも、あんまり頑張りすぎてこれ以上仕事を任されてもそれは困るか。今後も常にこの調子で仕事できるとは限らないし。だから残業に入ってから少しペースを落とす。ここまで張り切りすぎたのをクールダウンする感じで。
結局、最終的には昨日と同じくらいの時間に仕事を終わらせた。
仕事中に思いついてしまったお帰りのキスがあるかもと、なんだか妙に浮ついた気分だった。バスを降りてアパートが見えてくると、顔が勝手にニヤけてくるのが分かった。なんだか鍵を開ける手つきも落ち着かない気がする。そして「ただいま」とドアを開けた。すると、「おかえりなさい」と沙奈子の声が耳に届いてきた。
ああ、今日も無事だったと安心したのはいいけど、彼女はいつもの通りテーブルのところに座ったままだった。よく見るとまた人形を前に絵を描いてる感じだった。だけど立ち上がったりする気配はないし、もちろんキスしてくれる気配もない。そこで察した。いやあ、それはそうだよな。さすがにそこまでは期待しすぎだったよな。
ちょっとだけ残念な気持ちで風呂に入る。がっかりとまでは言わなくても、少し拍子抜けした気はする。そんな気分も洗い流して風呂からあがって、いつものように座椅子に座ると、僕の膝に座るために立ち上がった沙奈子が、僕に顔を近付けてきて、頬にチュッてしてくれた。不意を突かれてハッとなった僕の耳に、彼女の声が聞こえてくる。
「おつかれさまでした、お父さん」
少し首を傾けて微笑みながら沙奈子はそう言った。そうか、おかえりなさいのキスじゃなくて、お疲れ様のキスだったのか。それは盲点だった。
あ~、それにしてもなんて可愛いことしてくれるんだ。
「ありがとう、沙奈子。疲れが吹っ飛ぶよ~」
僕の膝に座った彼女を思わず後ろから抱きしめて、髪の毛に頬ずりしてしまう。胸の奥から何かがこみあげてきて顔が緩んでニヤニヤが止まらない。彼女も嬉しそうに僕の腕を抱きしめてくれる様子がたまらなく愛おしい。可愛い、可愛いよ沙奈子。冗談抜きに宇宙一可愛いと僕は思う。
そうか、これが親バカってものか。親バカって、こんなに気持ちいいものなんだ。他人から見たら本当にバカバカしくてみっともない姿なんだろうけど、そんなのはどうでもいい。これを素直に可愛いと思えないなんてもったいなさすぎる。それにこれは他人に見せるための姿じゃない。子供のことをどれだけ愛おしいと感じてるかを子供に見せるための姿だろうから、これでいいんだと思う。
思えば僕の両親のこんな姿なんて、見た覚えがない。兄のことをちやほやしてる姿は見たような気はしても、こういう感じとは全然違った気がする。もっと打算的な狙いが透けて見えてたかもしれない。ぜんぜんバカになり切ってなかった。
相手によってはたまにはバカになるのも悪くないんだな。僕は素直にそう思えたのだった。




