七百九十一 結人編 「それ以外の人にも」
八月二十九日。水曜日。
出勤三日目。仕事の内容自体はこれまでやってきたのとそんなに違いはなかったから、細かい操作方法や製図の際に求められるニュアンスといった部分についても最初の一日でほとんど分かったけど、僕が何より戸惑ったのは職場の雰囲気だった。
以前のそれはとにかく一部の職員同士が個人的につるんでる以外はお互いに他人に全く関心がなくて、とにかく人間関係が希薄だったと思う。
僕自身はむしろその方がありがたくて、そういう意味ではあの職場は気に入ってたんだ。もっともそれは、お互いを尊重してるとかいうのじゃなくて、人を人とも思わない冷淡さの裏返しっていう一面もあったのは事実だけどさ。
それと比べれば、ここはとても『あったかい』と思う。
ただ、お互いにどういう人かまだほとんど分かってない段階であまり距離を詰めてこられるのは、正直、大変かな。この辺りの雰囲気に慣れるには、少し時間がかかりそうだ。
それでも、沙奈子と暮らし始める前の僕のことを思えば、まだ、『何とかなりそう』って気がするだけずっとマシだな。あの頃の僕なら、面接に来た段階で辞退してた可能性さえある。『やっぱり辞めます』って電話で告げただけでもう行かないなんていうことだってしてたかもしれない。
そういうのはきっと、社会人としては眉を顰められるような非常識な行動だと自分でも思う。
だから僕は、自分がそんな非常識な一面も持ってることを自覚してるから、他人が少々非常識な真似をしてたってあれこれ言わないようにしてるんだ。
他人のことを責められるほど立派な人間じゃないからね。頭の中では思ってても、基本的に口には出さない。少なくとも本人の前で直接言ったりしない。
僕もそういうことをいちいち指摘されるのは嫌だから。自分が非常識なことをしてるのは分かってて、後ろめたい気持ちはあって、できればやりたくないなと思っていながらついやってしまってることを改めて指摘されるのは辛いよ。自分がされたくないことは、他人にもしないでおこうと思うんだ。
そんなだから非常識な奴がつけあがるんだ、のさばるんだ、みたいに言う人もいるだろうけれど、だったら、そう思う人は積極的にどんどん本人に対して言えばいいんじゃないかな。陰でこそこそするんじゃなくて、本人の目の前に立ってバシッて言ったらどうかな。
自分よりも間違いなく強い相手にでも、怖い相手にでも、誰に対しても変わらずに言えるんなら、立派だと思う。
だけど僕にはそんなことはできない。自分より間違いなく強い相手、怖い相手、それを言ったら厄介なことになりそうだなって思う相手には言えないから、それ以外の人にも言わないようにはしてるんだ。
相手によって言ったり言わなかったりというのは、卑怯だと思うから。




