七百三十二 結人編 「上手くいく要素が」
七月三日。火曜日。
何度も言うけど、勝手な印象を持たれると迷惑だから言うけど、僕は決して『良い人』なんかじゃない。ここまで沙奈子の面倒を見てきたんだからって無条件で『良い人』と思われるのは逆に迷惑なんだ。
僕は決して、『善意』で沙奈子を受け入れたわけじゃない。
ありていに言ったら、『仕方なかった』だけなんだ。あの子を放り出して何か事件にでもなったら余計に面倒なことになると思って、それが嫌だったから仕方なくあの子を部屋においてただけだったんだ。それが結果として僕の幸せになったけど、結局はそれもたまたまでしかなかった。意図してそうなるようにしたんじゃ決してない。
だけど、同時に、この結果が得られたというんなら、『どうしてこうなったのか』っていうのを検証することには意味があると思う。今後、同じような出来事があった時に参考にするために。
そう考えた時、世間一般で言われてる『常識』が沙奈子の事例では当てはまらなかったことに気付かされたんだ。
『殴ってでも子供を従わせる』こと。
『子供は大人のいいなりになるのが当然』という考え。
まさにそれらを実践しようとして失敗した事例だったから。
現に失敗に終わってるのに、それでもなお信じなくちゃいけないの?。その通りにしなくちゃいけないの?。
おかしいよ。
『結婚して子供を持つことこそが幸せ』っていう考え方で上手くいってない事例があるからこそ、『結婚して子供を持つことこそが幸せ』っていうのが必ずしも正しくないって考えるようになったんじゃないの?。それと同じようなことが他にもあるのがむしろ自然なんじゃないの?。
僕は今、それを強く感じてる。
誰かが言ってたことを参考にはしつつも、それがいつだってどの事例にだって当てはまるとは思い込まない。僕がこうやって得た結論だって、もしかしたら今後当てはまらない事例が出てくるかもしれない。それを忘れないでいたい。
ただ、『殴れば上手くいく』という事例が果たしてあるのかというのは、これまでの経験上からはまったく思い付かない。
尊敬してる相手。
信頼してる相手。
尊敬まではしてないけど信頼してる相手。
信頼まではしてないけど尊敬はしてもいいかなと思える相手。
個人的には馬が合わなくて好きじゃないけど、人間としては認めていいかなと思える相手。
そういうのに当てはまらない相手に殴られても、素直に『良かった』と思えるっていうのが、まったく想像つかないんだ。
殴られて何かが伝わったっていう事例には、必ずそこに元々それなりの信頼や尊敬や肯定が背後にあったんじゃないかって思うんだ。
だから、あらかじめそういうのがまったくない時には、上手くいく要素がないんじゃないかって。




