六百二十一 織姫編 「立派で完璧な者は」
三月十一日。日曜日。昨日と同じで、朝は寒かった。でも昼は割と穏やかだった気がする。
いつものように料理を作りに来た千早ちゃんたちを迎えて、僕は星谷さんと話をしてた。例のエスカレーターで遊んでた子供を叩いて怪我をさせたお年寄りの件だった。
星谷さんが言う。
「山下さんが懸念することについては、私もまったく同意見です。私は常々、子供がどうして素直に大人を尊敬できないのかということについて考えてきました。そして一つの仮説に行きついたのです。
もしかしたら、『テレビなどで大人の醜悪な実態を知ってしまったから』ではないかと。
もちろんこれは私が個人的にそう推測しているだけで明確な根拠があるものではありません。ですが、テレビ等が未発達だった時代は、子供たちは自身の身近な大人の姿しか見る機会がなく、その大人たちが表面上は立派に見える振る舞いをしていれば、それを立派であると説いてくれる者がいれば、『大人は立派なもの』と認識することもできた可能性はあったと思うのです。
しかし、毎日毎日、醜悪な大人が起こした恥ずかしい事件の数々がテレビ等で伝えられ、そういう情報に触れない日はないくらいになってしまった現在では、いくら表向きを立派に取り繕っていても、子供の方もそういう表向きの姿だけでは信用できなくなってしまっているというのがあるのではないでしょうか?。
自らを神格化し自国民に崇めさせようとする独裁者などが行うのも、徹底した情報統制です。自らにとって不都合な情報は徹底して自国民の目に触れないようにし、自身をまるで神の如く錯覚させるための情報だけを刷り込んでいく。これは、現在でも実際に行われている手法ですね。山下さんもご存知なのではないでしょうか。
だからと言って昔のようにテレビをなくしニュースをなくし、大人の立派な姿ばかりを喧伝するという時代に戻ることもできないでしょう。だとすれば、大人自身が変わるしかないのではないでしょうか?。子供に見られても恥ずかしくない人間になるべきなのではないでしょうか?。
ですが、人間というのは必ずしも誰しもが聖人になれる訳ではありません。だとするなら、もう、『大人は立派で敬うべきもの』という虚飾を根底から見直す必要があると私は感じるのです。
人にはいろいろな面があり、それらすべてが立派で完璧な者はいない。でも、そうなろうと努力することは可能だと私は思います。子供から見て尊敬に値する人であろうと努力することこそを尊いと思えれば、敬うこともできるのではないでしょうか。
私ももう三年足らずで成人します。大人と呼ばれる者になってしまう。だから私は、彼や千早の手本とならねばと身が引き締まるのを感じます」




