五百九十八 「無自覚タラし」
少し暗くなった展示スペースに来た時、指を絡ませ合って手を繋いだ僕と絵里奈は、何気なく見詰め合ってどちらともなくキスを交わしてた。いつも別れ際にする、軽く唇を触れさせるだけのキスだけど、胸がふわっとあたたかくなるのを感じた。
でも、それから沙奈子と玲那の方に視線を向けると、思わずギクッと体が撥ねてしまった。
「おや~?。どうしたんですか~?。どうぞ私たちのことは気にせずにもっと仲良くしててくれていいんですよ~?」
って、スマホを手にして心底ニヤニヤ笑いながら玲那が。沙奈子も嬉しそうに笑ってる。沙奈子の『笑顔』は、相変わらず僕たちにしか分からないそれだったけど、確かに笑ってた。
「もう、玲那のバカ!」
明るいところで見たらきっとユデダコみたいな真っ赤な顔をしてそうな絵里奈が声を抑えながらもそう言ったけど、僕と絡ませ合った指は離そうとしなかった。
水族館内でお昼にして、イルカのショーも楽しんで、家族の時間はとても穏やかに過ぎていった。
絵里奈や玲那と別れてアパートに戻り、沙奈子は僕の膝に座って午後の勉強をしてた。
この子はいつまでこうして僕の膝に座ってくれるんだろう。ふとそんなことを思う。それ以前に、今はまだ大丈夫でも、この子がもっと大きくなってきてもまだ座ってくるようなら、今度は僕の方が大変になってくるかな。玲那がたまに膝に座ってきたけど、正直、結構大変だった。たまのことだからゆっくり甘えさせてあげたかったけどさ。
また、あんな風にこうして玲那のことも膝に抱いてあげたいな。
あの子はまだ、精神的には酷く幼いところがある。ふとした表情や仕草が、すごく子供っぽい時がある。アニメのキャラクターを真似た仮面じゃなく、素の部分であの子は幼いんだって実感があるんだ。
沙奈子と同じ年の頃にあの子がいた『地獄』。山仁さんのそれとはまた違うけど、まぎれもなく苦しい『地獄』。それが玲那の心の成長を止めてしまった。それを補う為に仕方なくあの子が身に付けた『仮面』。
いつかそれを外すことができるんだろうか……。
それとも、外す必要がなくなるくらい、今の明るくて朗らかなあの姿が玲那の本当のそれになっていくんだろうか。
そのどちらであっても、あの子が望むなら膝を貸してあげてもいいな。
ああでも、絵里奈との間に子供ができたら、その子が僕の膝を独占することになるのかな。だけどたまには貸してあげたいな。
ビデオ通話の画面の向こうで忙しそうに品物の発送準備をしてる彼女の姿を見詰めてしまっていた。
水族館での絵里奈とのやり取りについては、まあ今のところそういう雰囲気でもないし、また今度にしよう。
ただ、また一緒に暮らし始められたら、それこそべったりになったりするかもしれない。沙奈子や玲那に本気で呆れられるくらいに。
でもでも、夫婦なんだから別にいいよね?。遠慮することないよね?。そこから先に進むのはさすがにヤバくても、一緒にイチャイチャしてるくらいは…!。
……いいの、かな……?。
なんてことを考えながら、僕は一人、自分の顔がすごく火照ってるのを感じてた。
夕方。夕食を済ませて山仁さんのところに向かおうと玄関を出ると、どこかに出掛けてたらしい秋嶋さんたちと鉢合わせた。
「あ、こ、こんばんは…!」
少し慌てた感じでそう挨拶してきた彼らに、僕と沙奈子も「こんばんは」って返してた。沙奈子もしっかりと頭を下げて。それが嬉しかったのか、秋嶋さんたちの顔がぱあっと明るくなるのが分かった。沙奈子のことが好きなんだなって感じられた。
相変わらず彼らは、玲那との約束を守って、変に馴れ馴れしく沙奈子に声を掛けるようなことをしないでいてくれてる。節度を保って自分を律して、距離を置いて沙奈子を見守ってくれてるのが分かる。
正直、まったく報われる可能性のない小学生の女の子に対してそういう気持ちを抱いているよりも、身の丈に合った同年代の女性にその気持ちを向けたらいいんじゃないかと僕なんかは思ってしまう。
って、あ、そう言えば、佐久瀬さんはあの旅館の仲居の木咲美穂さんと付き合ってたんだっけ。他の人たちにもそれぞれ友達ができ始めてるとも言ってたかな。玲那がオフ会と言ってるカラオケパーティーでも、知らない女の子が増えてたりしたっけ。
そっか…、それなりに彼らも変わってきてるんだ。玲那と出逢い、あの子と交流することで彼らの世界も広がっていってるんだ。その上で沙奈子のことも大事に想ってくれてるってことなんだろうな。
それに比べれば、同じ大学生の頃の僕なんか、好意を向けてくれてる鷲崎さんのことさえ疎ましく感じてたりだったから、人のことはまったく言えないな。
鷲崎さんも、よくこんな僕のことを好きでいてくれたものだと思う。
静かに手を振る沙奈子に向かって、「バイバ~イ!」と見送ってくれる彼らと別れて、僕たちは改めて山仁さんの家へと向かった。
「いらっしゃい!」
今度は大希くんと千早ちゃんに笑顔で迎えられる。
「こんばんは」
僕も自然と笑顔で応えられた。すごくホッとする。
「大希くんと千早ちゃんは今日も旅館に行ってきたんだよね。楽しかった?」
意識しなくてもそんな言葉が口を吐いて出た。それに二人も笑顔で応えてくれる。
「楽しかったよ!」
と大希くん。それに対して千早ちゃんは、
「ピカお姉ちゃんは相変わらずヒロにデレッデレだけどね!」
って腕を組んでぷーっとほっぺたを膨らませてた。でもその顔が笑ってるのが分かってしまう。星谷さんが大希くんのことが好きすぎることにヤキモチを妬きながらも、みんなが仲良くできてるのは嬉しいんだろうな。
すると大希くんも、
「僕もピカちゃん好きだよ。かわいいよね!」
だって。
「カ~ッ!、これだよまったく!。この無自覚タラしが!!」
ニッコニコに笑いながら『かわいいよね!』とためらいなく言う大希くんに、千早ちゃんは、『処置なし』とでも言いたげに肩をすくめて頭を振った。ああでも、千早ちゃんの言いたいことも分かるよ。大希くんはそういうことを本当に裏表なく素直に口にするんだ。誰かを傷付けようとする言葉は言い淀んでも、誰かを笑顔にするような言葉はためらわない。そこも彼のすごいところなんだ。だけど、この可愛い大希くんにそんな風に言われたら、そりゃたいていの人は悪い気しないよね。
なんて、そんなやり取りも息ぴったりで、いいコンビだなと思ったり。
だけど、この話もきっと二階に届いてて、今ごろ星谷さんはまた顔を真っ赤にしてるんだろうなあ。
と思いながら二階に上がると、案の定、頭から湯気さえ上りそうなほど顔を真っ赤にして俯いてる星谷さんの姿があったんだよね。




