五百九十六 大希編 「あなたの子供が欲しい」
山仁さんと出逢えたことは本当に大きいと思う。それがなかったら僕たちは今、こうしていられなかったかもしれなかった。特に玲那の事件以降のことは、どれだけ感謝の言葉を並べても足りないと思う。
でもそれも、山仁さん自身が経験してきたことなんだろうな。地獄のような苦しい境遇の中でも見捨てられずに済んで、だからこそ幸せにもなれた。
山仁さんだからこそ、力になってくれた人たちも見捨てずに済んだんだっていう気もする。
これが、自分の境遇にひねくれて他人を罵ったり八つ当たりするような人だったらそこまで助けてもらえなかったんだろうな。
そんな人でも助けようと思ってくれる人なんて、それこそ『聖人』とかそんな感じになってしまうと思うし。
そういう意味では、自分が救われるためには自分がどうあるかっていうのも大事だと思う。他人を傷付けたり苦しめたりしない人なら必ず救われるとは言えないとしても、周囲から手を差し伸べてもらえる人の殆どはやっぱりそうだと思うんだ。自分からは他人を傷付けたり苦しめたりしない人だって。
と言うか、本人が誰かを救おうという気持ちがある人ってことかな。
僕自身はそういう気持ちがあったかと言われると自身がないけど、少なくとも塚崎さんに会った時や山仁さんと知り合った時には沙奈子のことをどうにかっていう気持ちはあったのかもしれない。少なくとも見殺しにしようとは思ってなかったし、傷付けるつもりも苦しめるつもりもなかったのは確かだと思う。自覚できる部分では。
絵里奈が言う。
「イチコさんや大希くんを見てると、私もなんだか元気がもらえるような気がします。山仁さんを見てると自信がもらえるような気がします。
こう言ったら失礼ですけど、山仁さんって分かりやすく『有能で立派で正しい大人』って感じじゃないですよね。すごく穏やかで物腰も柔らかくて人格者だとは感じるんですけど、それと同時に決して『完璧な人』じゃないんです。片付けは苦手とか、本当は人付き合いが苦手とか、料理も上手じゃないとか、実はダメな部分も多いのに、イチコさんも大希くんもあんなにいい子だっていうのがすごいです。
完璧じゃなくてもいいんだって思わせてもらえます」
…確かに何気に失礼なこと言ってるけど、でも決してそれが山仁さんを悪く言おうとしてるわけじゃないのは分かる。と言うか、それは山仁さん自身が普段から言ってることだった。
『私は、世間から見れば大人としては欠陥品だと思います。欠点ばかりで評価される部分がない。ですが、あの子達の親としては辛うじて及第点を維持してると思っています』
って。それは謙遜とかじゃなく、客観的な事実として言ってるんだというのも分かる。世間が思う分かりやすい『立派な大人』というイメージからは外れてると思う。僕たちは山仁さんのことをよく知ってて彼がどれだけイチコさんと大希くんのことを大切にしてるかを見てきてるからすごい人だと感じるにしても、よく知らない人から見れば『子供に甘い優しいだけの父親』に見えるんだろうなっていうのも事実だった。
でも……。
「でも、間違いなく『すごい人』だよね」
僕はしみじみと気持ちを込めて言わせてもらった。すると絵里奈も、
「はい、『すごい人』です。見習うべき部分がたくさんあると思います。だけど、そんなすごい人と親しくなれた達さんも、私に言わせれば『すごい人』ですよ。沙奈子ちゃんを見ていても分かります。家族がこうして別々に暮らしてるのに、沙奈子ちゃんはとても真っ直ぐに育ってる。それは達さんが傍にいてくれてるからですよ。達さんも決して山仁さんに負けてないですよ」
ニッコリと笑いながらそう言ってくれた。
『山仁さんに負けてないですよ』
僕を真っ直ぐに見詰めて発せられたその言葉に、顔が熱くなってくるのを感じる。そんな風に言われると照れるやら申し訳ないやらでいたたまれない。絵里奈はさらに続けた。
「達さん。私はあなたを尊敬しています。妻は夫を尊敬するべきとかいう話を聞いたら昔は『はあ?。何言ってるの?』と思いましたけど、今なら素直に言えます。『あなたを尊敬しています』って。誰かに言われたからでもそうしないといけないからでもなく、私の気持ちとしてそうなんです。
私、あなたと結婚して良かった。まだ一年ちょっとしかたってませんけど、そう思います」
絵里奈…。
「…ありがとう。そう言ってもらえるとすごく嬉しい。
でも、結婚して良かったと思ってるのは、僕もだよ。絵里奈と結婚して本当に良かったと思ってる。
世間では『結婚は人生の墓場』だとか結婚のネガティブな面ばかり強調する話が溢れてるけど、僕も昔はそう思ってたけど、実はそうじゃないっていうのをすごく感じてる。
そういうのってさ、結婚を失敗だと感じてる人の発言ばかりが取り上げられるからそう見えるだけなんだよね。幸せな人ほど実はそれを声高に他人に言いふらしたりしないから、どうしても愚痴ばかりが目立ってしまうだけだっていうのが分かったよ。
もし僕が自分がどれだけ幸せなのかをネットで延々と綴ったら、たぶん、『何言ってんだこいつ?』って思われるだけだと思う。それどころか、やっかんだ人たちから総攻撃を受けたりするかも知れない。それが嫌だから敢えて言いふらさないっていうのもあるんじゃないかって実感があるんだ。
僕は今、本当に幸せだよ。絵里奈と結婚して、沙奈子と玲那の父親になれて」
楽しそうに水槽を覗き込んでる沙奈子と玲那を見守りながら、正直な気持ちを吐露させてもらう。それから絵里奈を見詰めて言った。
「愛してる、絵里奈。僕を選んでくれてありがとう」
絵里奈も、満面の笑みで応えてくれた。
「私も愛してます。達さん」
しかもそれに付け加えて、
「私、早くあなたの子供が欲しい」
だって。
さすがにそれには、かあっと顔が熱くなるのを感じた。だって僕を見詰める絵里奈の目が潤んでるようにも見えたから。
まさか自分が女性からこんな風に言われる日がくるなんて思っても思ってもみなかった。結婚とか子供とか、縁がないと思ってたのに。
その時、僕の頭にフッと思い出されてきたことがあった。
『親と同じ失敗をしそうなのが分かっちゃって、なんか結婚とかに積極的になれないんですよね』
って、確か絵里奈がそんなこと言ってたはず。
そうだよ。会社の社員食堂で他愛ない話をしてた時に、そういうことを確かに言ったのを思い出した。なのに今は、『あなたと結婚して良かった』とか、『早くあなたの子供が欲しい』とか。
それだけ絵里奈の中で大きく変わったことがあったってことだよね。自分の親と同じ失敗はしないって思えるようになったってことだよね。
そしてそれは、僕自身の変化でもあったんだ。




