五百八十六 大希編 「今ならできる」
二月六日。火曜日。少し緩んでたように感じてた寒さがまたぶり返したみたいでキーンと空気が冷たくて硬い。場所によっては大雪になったりしてるみたいだな。この辺りでは殆ど雪は降ってないけど。
「沙奈子も絵里奈も、寒いから気をつけてね」
そう声を掛けて僕も出勤する。バス停でバスを待ってる間だけでも手がキリキリと締め付けられるように痛んだ。早く暖かくなってほしいな。
二月七日。水曜日。今日も寒い。痛いくらいに寒い。でも昼以降はちょっとだけマシになったのかな。って気がした。でもやっぱり寒いな。
二月八日。木曜日。今日も、朝はそれなりに寒かったけれど、昨日に比べればまだマシな気もする。特に昼は天気も良くて日が当たるところなら少し暖かさも感じなくはない気もした。
それでも仕事から帰る頃にはまたけっこう寒くてきつい。山仁さんの家に沙奈子を迎えに行って、沙奈子と大希くんと千早ちゃんに「おかえり!」って出迎えてもらえて気持ちだけでもあたたかくなれた。
こうやって毎日毎日わざわざ出迎えてくれるのが本当に嬉しかった。もちろんそれは、玄関の鍵を開ける時に窓から覗いて僕だというのを確認する為に出てくるついでっていうのもあるのは分かってる。だけど嬉しかった。
笑顔で出迎えられて悪い気分になる人はそういないんじゃないかな。もしそれでいい気分じゃないってなったらそれは相当、気持ちが荒んでるってことな気もする。そうなってくれば何かちゃんと手を打つべきなのかもしれない。しっかりと対処して心をほぐさないと。
その点、僕はこうして笑顔で迎えられてるだけで十分ホッとできてるからありがたい。でもそれも、大希くんがお父さんに『おはよう』『いってらっしゃい』『おかえり』『おやすみ』って穏やかに言ってもらえてるからなんだっていうのも分かる。大希くん自身は、その真似をしてるだけなんだ。そして、千早ちゃんも、山仁さんから同じように言ってもらえてるからその真似をするだけで『優しくていい子』になれる。
義務感で挨拶をしたりさせたりっていうのは違う気がする。それじゃあ挨拶が『嫌なこと』になってしまいそうだ。事実、僕は学校で挨拶を強要されるのが嫌いだった。尊敬できない教師とかに挨拶をするのがとにかく苦痛だった。自分が子供から見て信頼に値しない大人だっていうのを認めずそれを改めようとしないくせに努力とか誠意とかを口にするのが不快だった。他人にそういうのを要求するなら、まず自分自身を省みなきゃって今なら思う。
だから僕は沙奈子に偉そうに命令したくない。自分ができてないことをやれって言いたくない。挨拶をしてほしいなら、まず自分からする。挨拶を返してもらえなくてもする。だけどしたくない人にはしないこともあるから、必ずしろとは言えない。
『挨拶するのが当然』って言ってる人は、本当に誰にでも挨拶してるんだろうか?。自分から。たとえ挨拶を返してもらえなくても。たとえ相手が子供でも。相手の方から挨拶させる為に、『挨拶するのが当然』って言ってるだけじゃないのかな。
なんて、まさにそういう感じの大人を何人も見てきたからそう思ってしまうんだ。
大希くんや千早ちゃんが僕に笑顔で挨拶をしてくれるのは、そうしたい相手だと思ってもらえてるからなんだろうな。それが嬉しいんだ。自分が認めてもらえた気がして。
挨拶をするというのは、相手の存在を認めることなのかもしれない。相手の存在を認識してなければ、そもそも挨拶しようとも思わないもんな。ということは、相手を認められるだけの精神的な余裕がないと、やっぱり挨拶ってスムーズにできない気もする。大希くんにはやっぱり、その精神的な余裕があるってことだって感じる。
「大希くんは、学校、楽しい?」
思わずそんなことを問い掛けてしまう。するとすかさず彼は応えてくれた。
「楽しい!。千早や沙奈がいるから!」
そこで沙奈子や千早ちゃんの名前をすぐに出してくれるのが本当に嬉しい。
「お父さんのこと、好き?」
続けて問い掛けてしまっても、
「好き!」
と、躊躇うことなく応えてくれる。こういう時はそう応えるべきっていう計算じゃなくて、ホントにお父さんのことが好きなんだなっていうのが分かる。そしてそれが、他ならぬ山仁さんが彼を大切にしてるからなんだって伝わってくる。
「そうか。僕も大希くんのお父さんのことが好きだよ。大希くんや千早ちゃんや沙奈子のことを大切にしてくれるから」
僕はそう応えると、彼はすごく眩しいくらいの笑顔で自慢げに「うん!」って頷いた。大希くんにとっても自慢のお父さんなんだな。
子供にそう思ってもらえてたら、酷く反発したり逆らったりする必要もなくなるのかもね。
こんな大希くんでさえ、『死にたい気持ちになることがある』っていう。この世の中には、こんなに朗らかで健やかな彼に『死にたい気持ち』にさせることがあるんだ。こんな世の中のどこが『優しいだけ』なんだっていうんだろう。とても辛くて苦しいことに溢れてるよ。わざわざ家の中に辛い環境なんて作らなくたって。
大希くんを『死にたい気持ち』にさせるくらい辛いことが既にあるんだから、それを一つ一つ乗り越えていけばそれで十分に『試練』になってると思う。
「大希くんは、辛いこととかある?」
そんなことも聞いてしまった。
すると彼はすかさず、
「千早や沙奈やお姉ちゃんやピカちゃんやカナちゃんやフミちゃんが泣いたりするのは嫌だ。辛い!。みんなが笑ってられないのは辛い!」
「…!」
本当に、本当に、器の大きい子だな……。
辛いことがあるかと聞かれて、自分の好きな人たちが泣いたりするのが辛いって躊躇せずに言えるんだよ?。僕が小五の頃、こんなことを思ってたかな?。
ううん、ぜんっぜん、欠片も思ってなかった気がする。と言うか、大切な人なんていなかった気がする。それじゃあ楽しくもなくても幸せでもなくて当然かもしれない。
まったく、残酷なくらいに現実を突き付けてくれるよね。そういうことを当たり前みたいに口にできる境遇に生まれられる子がいるんだっていう現実を。
だったら、僕も、沙奈子や玲那や、これから生まれてくるかもしれない絵里奈との子供たちを大希くんと同じ境遇にしてあげなきゃって思わされる。そういう境遇にしてあげられない不公平を僕が作っちゃいけないって思わされるよ。
きついね。本当にきつい。だけど『負けたくない』って素直に思える。僕の子供たちが彼にヤキモチとか妬かないで済むようにしてあげなくちゃ。
でないと僕は、自分自身が許せなくなりそうだよ。これを知っててそうできないなんてさ。
知らない頃ならできなかったことでも、今ならできるはずだから。




