五百八十三 大希編 「優れた人間」
『知りたいのです。私自身の本当の気持ちを』
沙奈子や千早ちゃんと一緒に料理をしている大希くんを見詰めながら、星谷さんはそう言った。
『本当の気持ち』…。熱に浮かされてるみたいな、気分が高揚してる時期が過ぎた後に残る、冷静になった状態での自分の気持ち。
もしかしたら多くの人はそれを知るのを怖がるのかもしれない。それってつまり、『恋に夢中になって相手のなんでもかんでもが素敵に見える』っていうのじゃない時のってことだよね。
気持ちが盛り上がって勢いで結婚して、でもその熱が冷めた後のってことだよね。
自分は果たして本当にその人のことが好きだったのか、恋に浮かれてる自分が好きなだけだったのかっていうのを試されるってことだよね。
もし、自分が好きだったのが『相手』じゃなくて『恋してる自分』だったりしたら…?。
大抵の人はそれを知るのを怖がりそうな気がする。
でも星谷さんは、敢えてそれを知りたいって言ってるんだというのが分かった。
彼女の言ってることは、僕にもあった気がする。僕は、絵里奈のことが好きだ。女性として、伴侶として、僕の子供を生んでくれるかもしれない人として。恋に浮かされた状態じゃない、冷静で冷淡な思考の中でさえそう思えたからこそ彼女との結婚を決めることができた。これから後の人生の中で何があっても彼女と協力して乗り越えていけると思ったからこそ結婚した。
星谷さんは、きっと、それを言ってるんだろうな。大希くんに触れられて胸がドキドキして顔が真っ赤になって全身が燃えるように熱くなった状態でなくても、彼に触れられてもそうならなくなってでも彼と一緒に生きていきたいと思えるかっていうのを知りたいんだろうな。
そうでないと、熱が冷めた途端、相手の粗ばかりが目について一緒にいるのも嫌になる、なんてことにもなりかねないし。
それはたぶん、彼のことを嫌いになりたくないからっていうのもあるのかと思った。気持ちが盛り上がってる時に近付きすぎて結ばれてしまったら、冷めた時にその反動が大きくなって彼のことを嫌いになってしまうかもしれないっていうのが怖いのかも。
本当に、真っ直ぐで誠実な女性なんだな。
その真っ直ぐさが行き過ぎて周りが見えなくなってた時期があったことを自分で理解してるからこそ、同じ失敗をしたくないのかもしれない。
普通の人なら躊躇ってしまうようなことでも、頭では思ってても行動には移せないようなことで、どんどん実行してしまう彼女だけど、本当は、失敗することを怖がる繊細な一面もあるんじゃないかって気もした。
だからこそ、失敗した時のこととか、変わってしまうかもしれない自分の気持ちとかについてきちんとあらかじめ考えておきたい、気構えを持っておきたいってことなのかもね。
そうやって僕と玲那と星谷さんが話してる時、突然、千早ちゃんが叫んだ。
「ハンバーグ!!」
と言いながら、こねたハンバーグをフライパンで焼き始める。そして次のハンバーグをフライパンに乗せる時にも、
「ハンバーグ!!」
ってまた叫んだ。すると大希くんがツッコむ。
「やかましいわ!!。黙って置けや!!」
でもそんな大希くんに今度は沙奈子が、
「大希くんもうるさい…」
だって。
「なんと!?、今度はツッコミ!?」
玲那がビデオ画面の向こうで驚いたポーズをとってる。でもその気持ちは分かるよ。
きっと今までにも、僕たちが気付かなかっただけで、ここでもやってたんだろうなって気がしてきた。だって、玲那が驚いてたのも聞こえてるはずなのに、全然気にしてる様子もなかったから。何を今さら驚いてるんだろうって感じかもしれない。
「本当にいいですね。羨ましいくらいです」
星谷さんが目を細めながら言った。
確かに。僕が小学生の時にはこんな友達はいなかった。玲那もそうだ。そして星谷さんにも。
「私が小学生の頃、友達と呼べる人はいなかったと思います。でもそれは、私が周りの人達を見下していたから。『どうしてこの程度のことも分からないの?。あなた達みたいな程度の低い人とは話が合わない!』って感じでした。
今から思えば本当に恥ずかしい。分かっていないのは私の方でした。私がいくら勉強ができたところで、お米一粒さえ作れないし、魚一匹さえ獲れないのですから。
人は万能ではありません。様々な知識、様々な技能、様々な才覚を持った人々が集まってようやく自分達が生きていける世界が作れるのです。あの三人も、それぞれの能力を活かして仕事に就くでしょう。一見すると生きていくのに必要ない仕事をすることもあるかもしれません。でも、この世には本当に無駄なものというのはないのだと、今の私は感じています。それぞれが関わり合い影響し合い、そして全体が出来上がっていく。
だから個々の人間一人一人が大切なのです。優れた人間だけがいればいい訳じゃない。
そもそも、『優れた人間』とはどのような人を言うのでしょうか?。
知識が豊富な人でしょうか?。ですが知識だけなら今はネットからでも引き出せます。
頭の回転が速い人でしょうか?。ですがもう、チェスも囲碁も将棋でも、コンピューターが勝ってしまうことがあります。
では、素晴らしい発明をする人でしょうか?。発見をする人でしょうか?。ですがそういう方々も、一人ではできないことがたくさんあります。
では、強い指導力を発揮し、多くの人々を導く人でしょうか?。ですが、それは他の多くの人々がいて初めて意味を持つものでしかありません。一人では何の役にも立ちません。
何をもって『優れてる』というのかが、私にはもう分からなくなってしまいました。
私は今、玲那さんの『声』を取り戻すべく研究を重ねています。ですがそれも、専門の技能を持った方々の協力があってこそのものなのです。私一人では、アプリ一つ満足に作ることができなかったかもしれません。私の知識はその方面はカバーしていませんでしたから。
そしてなにより、私にこの発想をもたらしてくれた存在こそが、彼なのです。彼がいなければ、私は自分の能力をどう活かせばいいのか、その指針を得ることもできなかったかもしれません。彼こそが、私に目指すべき道を指し示してくれるのです。
どんな才能も才覚も、それを活かせる場に導いてもらえなければ磨かれることさえなく埋もれていくのかもしれません。
そういう才能や才覚に道を指し示すことができるというのも、ある意味では優れた才能や才覚と言えるのではないでしょうか?。
彼がいなければ、千早は沙奈子さんにとって有害な存在のままだったかもしれません。こうして沙奈子さんと一緒に料理をしてその腕を磨いて自身の家庭の状況を変えるということもできなかったかもしれません。
そしていつか、こうして身に付けたことを活かすかもしれないでしょう。
彼がいなけれそれもなかったのかもしれないのです」




