五百七十一 大希編 「近くて遠い」
「…その事件、もしかして四月ごろに結構なニュースになっていたものでしょうか?」
僕の話に星谷さんは真面目な顔でそう聞き返してきた。僕はその頃、玲那のことで頭がいっぱいでほとんどテレビもネットも見てなかったからよく覚えてないんだけど、世間ではかなり騒ぎになってて、それで玲那の事件の話題が一気にネットからも消えたきっかけになった事件の一つらしかった。
当然か。小学生の女の子を誘拐しようとした犯人が逃げる途中で他の小学生の男の子を撥ねるという事故を起こしたんだから。だけどその事件には、世間に知られてない事情があったっていうことなんだ。
「はい。そうだと思います。それで撥ねられた男の子というのが、鷲崎さんと一緒に暮らしてる鯨井結人くんという男の子で、しかもそれはただの事故じゃなくて、彼がわざと犯人の自動車に飛び込んだことで起こったものらしいんです」
「それは…、確かに聞き捨てならないですね」
「ええ…、僕たちもそれを聞いた時は驚きました。鷲崎さんもそのことに気付いたのは最近だそうですけど」
「それで、相談というのは…?」
「はい、結人くんがそういう無茶をしているのをどうすればやめさせられるかということですね」
「なるほど……」
僕がそこまで言ったところで、星谷さんは自分の唇に手を当てて、何か思案するような姿で黙ってしまった。さすがに答えが出るとは思わないけど、もしかしたらという期待をしてしまったのも正直なところだった。
だけど、星谷さんの口から出てきたのは……。
「…正直、『やめさせる』ための妙案というのは、私にも見当もつきません。危険なことをしないように諭すのは当然ですが、行動を完全に制御するというのは現実的ではありませんからね。それこそ、物理的に監禁するとかという話になってしまうでしょう」
とのことだった。やっぱり、それしかないのか…。
星谷さんは続ける。
「確かに、走っている自動車にわざと飛び込むなど、一歩間違えれば死に至る危険な行為です。ですが、それは本人が一番分かっているはずのことでしょう。普通はそんなこと、やろうと思っても体が竦んでできないことのはずです。しかし、一時的に感覚が麻痺してるなどの場合にはできてしまう場合もあるでしょうね。何らかの理由でハイになっているとかで自制が効かない状態の人が悪ふざけでそういう行為に及ぶ事例が確かにありますし。
ですが、そういう行動を確実に防ぐ方法はありません。本人が自制するしかないんです。ということは、どうやって自制できるようにするかですが、これも確実な方法は残念ながら思い当たりません。やはり、地道に諭していくしかないのではないでしょうか?」
…だよね。
星谷さんでさえそういう結論になったことで、僕は何だか少し気が楽になった感じがした。彼女にも答えが出せないんなら僕たちにできなくても当然っていうか。
それを言い訳にはしたくなかったけれど、結人くんを止めるために彼を監禁すればそれ自体がきっと犯罪になってしまう。周りの人間にできることは、彼が無茶なことをしないように諭していくしかないんだって改めて思い知った。
そうだ。結人くんにもしものことがあれば鷲崎さんが悲しむ。結人くんが何か取り返しのつかないことをしでかしたら鷲崎さんが苦しむ。そのことを彼に知ってもらうことができれば……。
だけどそれも、結人くんにとって鷲崎さんが、悲しませたくない、苦しめたくない、そういう存在であってこそ効果を発揮することなんだな。どうでもいいとか邪魔とか思ってる存在だったりしたら、それこそ何のストッパーにもならない。
けれど鷲崎さんは、お母さんに首を絞められて殺されそうになった結人くんにとっては命の恩人にもあたる人のはずなんだ。しかも、それからずっと彼を守って育ててくれた人だ。そんなの、なかなかできることじゃない。それをやってくれた鷲崎さんは、結人くんにとっては本来はかけがえのない人のはず。彼がそのことに気付いてくれてれば……。
そうすればもしかしたら……。
玲那だって、もう二度と沙奈子や絵里奈や僕を苦しめたくないと思えばこそ、心の底では自分に酷いことをした相手を一人一人探し出して復讐してやりたいと今でも思っていてもそれを実行には移さないでいられてるんだ。それと同じことが結人くんにも起こってくれれば……。
…そうか、そのためには、鷲崎さんが結人くんにとってそういう存在であり続けるように努力しなきゃいけないんだな。
なんてことを僕が考えている時、餃子のタネができたらしくて、千早ちゃんがボウルを抱えて、
「おっしゃ~!、包むぞ~!」
と声を上げてコタツの方に来た。なので僕たちも話はそこでいったん終了し、餃子作りに集中する。
できた餃子の半分は千早ちゃんが持ち帰り、今夜のおかずにするそうだった。
「またね~」
昼食を終えてそう手を振りながら、三人は帰って行った。
今日の夕食は餃子の残りということでいいとして、午後の勉強をする沙奈子を膝に抱きながら、僕は玲那とやり取りをしてた。
『結局、ピカの言った通りなんだろうな』
『そうだね。悩ましいけど、そういうことなんだと僕も思う』
『閉じ込める訳にもいかないしな~』
『うん』
『織姫ちゃんがどれほど結人くんのことを大事に想ってるか彼に伝わったらな~』
『ホントだよ。そうすれば彼女を悲しませないためっていう大きな理由ができるはずなんだ』
『何だかんだ言ってても結人くんも織姫ちゃんのこと、大事に想ってそうな気がしないでもないんだけどね~』
その玲那の言葉が事実であることを、僕も祈らずにはいられなかった。
「すいません。心配かけてしまって」
夕方。山仁さんのところに行くと、久しぶりに集まったみんなの前でイチコさんが頭を掻きながらそう言った。その様子はいつもと何も変わらない感じで、完全復活ってことなんだろうなって思えた。
「それにしても、今回はしんどかったな~」
とも言ってたけど。熱が高くて体を起こすこともできなくて、イチコさん自身も『これって何かヤバい病気なんじゃ…?』と思ったそうだった。結果としてそれは杞憂に終わってよかったにしても、山仁さんも心配してたって。
こういうこともありつつ、毎日は過ぎていく。
そんな風に自分が何かしなくても心配や不安の方からやってくることもあるのに、わざわざ自分からその種を蒔く必要はないんじゃないかな。結人くんが早くそれに気付いてくれたらいいんだけど……。
こんな時、すぐに顔を合わせられる身近にいないというのが辛いな。
もっとも、すぐ近くにいたってすごく遠い相手もいるけどね。
波多野さんのご両親とか田上さんのご家族とか……。




