五百五十八 大希編 「案外、難しいもの」
八日。月曜日。成人の日で僕は休みだけど絵里奈は仕事があるから、今日は一日ゆっくりする。
昨日の星谷さんの話は、僕も『なるほど』って思わされた。
物語とかでは愛する者同士が結ばれるっていうのは確かに盛り上がる展開かもしれないけど、現実は物語とは違うからね。『結ばれてハッピーエンド』じゃないんだ。実際にはそこから先が長いんだ。
結婚がまるでゴールのように言われることは多いけど、実は単にスタートに着いただけで、本番はそれからなんだって今なら分かる。二十代、三十代で結婚したら、もし八十まで生きるとしても結婚してからの人生の方が長くなるわけで、その中ではきっといろいろなことがあると思う。ただただ我慢を強いられる時期だってあるんじゃないかな。
そんな時に何年も耐えることに比べれば、結婚が許される年齢になるまで、結婚が認められるようになるまで『我慢する』のなんて、別に大したことないんじゃないかな。
たとえばもし、今の沙奈子のことを本気で好きだと、幸せにすると、幸せにできるという男性が現れたとして、僕がそれを認められたとして、あの子が結婚できる年齢になるまではあと四年半弱。そう、たった四年半弱なんだ。玲那の執行猶予の期間のたった1.5倍。そんな僅かな時間すら我慢できないような相手に、沙奈子を任せられるのか?。
僕は、そんな相手にあの子を任せたくない。
『愛さえあれば』『愛しているから』で何でも許されると思うのは違う。そんなの、ストーカーやDVの加害者だって思ってることじゃないか。愛していればこそ我慢が必要ってこともあるんじゃないかな。それを試されてるってことじゃないかな。
なんて考えると、未成年のうちにセックスすることの危うさが腑に落ちてしまった。『愛しているからこそ待つ』ってこともできない相手と、山あり谷ありの人生を何十年も一緒に過ごすなんてことが果たして可能なのか?。って話なんだって。
ましてやただ性欲を満たすだけで責任を負う気もないのにするとか、それこそ論外だよね。
『避妊すればいいじゃないか』とか言う人もいるかもしれないけど、いやいや、そもそもそんな我慢もできないような人が、ちゃんと責任もってしっかりとした避妊とかする?。避妊だって百パーセント失敗しないとは限らないし、それを考えれば『しない』ことが正解じゃないかな。
二十歳を過ぎれば親の承諾がなくたって当人同士の合意さえあれば結婚できるんだ。沙奈子の場合はあと八年半弱。それを待てるなら、なるほどあの子を大切に想ってくれてるんだなって見做してもいいかもしれない。中には元々そういう欲求があまり強くないから我慢できてしまうっていう場合もあるかもしれないからそれだけでは判断できなくても、大きな判断材料の一つにはなる気がする。
『二人は結ばれて幸せになりました。良かった良かった』なんて物語を真に受けて『とにかく結ばれる』ことを目的にしてるような相手には沙奈子は渡せない。そこを我慢できるかどうかでも相手が本当に大切に想ってくれてるかっていうのが測れるっていうのも、あの子に教えておいてあげなくちゃ。
お互いに大人になってからなら、『子供をこの大変な世の中に送り出してしまった責任を取れる』なら、別に好きにすればいいと思うけどね。
僕はもう、絵里奈との子供ならその覚悟はできてる。いつだって来てもらっていい。一緒に暮らせてない今の時点ではいろいろ大変なのは確かでも、それを含めて心の準備は済んでるんだ。沙奈子も、玲那もね。
沙奈子に聞いたんだ。
「もし赤ちゃんが来たらどうする?」
って。
そしたらあの子は躊躇わずに言ってくれた。
「うれしい。お父さんとお母さんの赤ちゃんなら可愛いと思う」
ってさ。
僕が絵里奈や玲那に取られるかもしれないと思ってショックを受けた時の彼女はもういない。あの頃はまだ、自分がまた捨てられるんじゃないかって不安で不安で仕方なかったんだろうな。その不安を取り除くことができたんだって、僕も嬉しかった。僕が今までやってきたことを認められた気がした。
玲那に至っては、
「な~に遠慮してんだよ!、さっさと作っちゃってよ、私と沙奈子ちゃんの妹か弟をさ!。お父さんがいない時は私が代わりに目いっぱい可愛がるから!」
と言ってくれてる。
だからってさすがに積極的にはできなくても、もし来てくれるようなことがあっとしたら、家族の気持ちとして何も心配しなくていいっていうのは確かだと思った。家族がみんな、祝福してくれる。『生まれてきてくれてありがとう』って言ってくれる。自分がそういう家庭を作れていることが、今の僕の何よりの自信になってる。
『生むんじゃなかった』とか『作るんじゃなかった』とか子供に対して言わなくても済む家庭を自分が作れたんだって。
それはもちろん、僕一人の力じゃない。沙奈子と絵里奈と玲那と、そしてみんなのおかげだ。そういう中に、僕と絵里奈の子供は加わることができるんだ。だから何も心配してない。
僕の両親にとって僕は、『要らない子供』だった。それこそ事故みたいな感じで生まれてきた厄介者でしかなかった。経済的には苦労してなくても、あの家に僕の居場所はなかった。
経済的に裕福だとか、両親が揃ってるだとか、教育熱心だとか、そんなのは、あれば確かにいいかもしれなくても、それだけあれば幸せになれるわけじゃない。自分が望まれていない家庭にいると、それを他のもので補うのは並大抵じゃないと思う。
逆に、自分が望まれてそこにいるという実感があれば、必ずしも裕福でなくても両親が揃っていなくても教育熱心でなくても、満たされることは多いんじゃないかな。
もちろん、食べるものにも困るとかそこまでだとさすがに厳しいだろうし、口先だけでいくら『生まれてきてくれてありがとう』みたいなことを言ってくれてても実感がこもってなければ伝わらないとは思うけどね。一見すると子供に優しくて理解のある親に見えてても、実はそういうのを演じてるだけっていう場合もあるかもしれないし。そういう親って、子供の話を聞いてるようで本当は聞いてなかったりするんだろうな。まさに、僕の兄にとっての両親みたいな。
優しいふりをして話を聞いてるふりをして、実際には何も聞き入れてくれない、相手の言うことはやんわりと全部否定して自分達の価値観を一方的に押し付けてくる人って確かにいるし。僕もそうならないように気を付けないと。
なんてことを思いながら、これまでと同じように淡々と毎日を過ごすことを心掛ける。
別に無理にイベントを起こそうとしなくても、望まない形でイベントが起こるのも人生っていうものなんじゃないかな。だから僕たちは、自分からイベントを起こそうとは思わない。正直、今まで起こったことだけでもお腹いっぱいだからね。
まったく平凡で退屈な人生って、案外、難しいものなんだろうな。




