五百五十六 大希編 「僕たちの感覚」
六日。土曜日。また休みだから、今日は、鈴虫寺の近くの喫茶店を目当てにまたみんなで散歩する。お昼は苔寺近くのお茶屋さんでまた山掛けそばの予定だ。
苔寺口の方から坂を上る。今日もそんなに人混みはない。と言うか、苔寺や鈴虫寺に行く人は基本的にバスとかタクシーとかを使うのかな。こうやって歩いていく人は少ないのかもしれない。
でも、そのおかげでのんびりと歩いていられる。沙奈子もこうやってみんなで一緒なら散歩も楽しいらしい。
今日は、星谷さんたちはまたあの旅館に行ってるそうだ。それは、星谷さんが大希くんと一緒にお風呂に入るためっていうのももちろんあるけど、同時に、山仁さんをゆっくり休ませてあげるためっていう意味もあるらしい。
それはそうか。山仁さんの家は決して大きな邸宅じゃない。どちらかと言えば狭小住宅にさえ近い、質素なお宅だ。しかも、いつも集まってる二階の部屋は寝室のすぐ隣で、その寝室ともカーテンで仕切られてるだけだから、人がいればその気配だけでも全部伝わってしまう。プライバシーなんて全くない。
だからせめて週に一回程度は、みんな留守にして静かにしようということだった。
と言うか、本当にプライバシーがないと思う。僕のアパートとそう変わらないくらいに。それどころか、人口密度的にはむしろ狭いんじゃないかな。お互いの関係が良好だから一緒にいられるけど、もしそうじゃなかったらそれこそ大変だろうなあ。
イチコさんも大希くんも、個室とかは欲しがらないらしい。そもそも『一人になりたい』って思うことがほとんどないんだって。いっつも家族の誰かの気配を感じていたいって。しかも、イチコさんも大希くんも、暑い時期に家族だけの時にはパンツ一丁だって。
それどころか最近では、波多野さんまでそれに慣れてしまってお風呂上りには裸でうろうろすることもあるって。山仁さんに見られてももう平気だって。山仁さんがまた、それを気にしてないから。
山仁さんが言ってた。
「人間の体なんて皆似たようなものですよ。妻も娘も他の女の子も変わりません」
だって。それについては僕も分かる気はする。僕の場合は、相手が絵里奈だから気持ちが昂るんであって、沙奈子や玲那の裸を見ても、本当は何とも思ってない。じろじろ見たら嫌がるかなって思うから遠慮してるだけっていうのはある。
山仁さんはこうも言ってた。
「人間の体も生理現象も、ただそういうものとしてそこにあるだけなんです。それを無闇に特別扱いしたり忌避したりという感覚が、私には理解できません。性的な昂りなど、自分が伴侶と認めた相手にだけ生じればそれで何も困りませんし、生きているからこそ生じる諸々も、あって当たり前の現象です。
もちろん衛生などには注意も必要ですが、過度に忌み嫌うのは理性的ではないと私は思います」
なんかすごい。僕も何となくそう思ってた気がするけど、言葉として説明されるとすごく腑に落ちた。そうだ。僕は絵里奈に対してだけ『彼女が欲しい』って気持ちになれれば何も困らない。だって絵里奈が僕を好きでいてくれてるから。他の女性は他の男性と惹かれ合ってくれればいい。僕のことを知らない、好きでもない女性にわざわざ手間をかけてまで好かれたいとも思わない。
沙奈子も玲那も、僕のことは『父親として好き』って思ってくれてる。だったら僕は、二人の前では『父親』でいい。異性である必要も感じない。
それでいいじゃないか。誰も困らないし、楽でいられるし。
さらには星谷さんも田上さんも、山仁さんの家ではそうだってことを知ってて何も言わないそうだ。そこまで自分をさらけ出せる相手だから、何も気取る必要はないし、心配も要らないってことなんだろうな。
ただ一方で、そんな風に思えない、そんな風にできないっていう人がいるのも分かる。同時に何人もの人が好きになってしまったり、逆に誰のことも好きになれなかったり、生理現象を『不潔だ!』って感じてしまう人がいるのも事実だと思うし、そういう人のことを否定したいわけでも、僕たちと同じになれって言いたいわけでもないんだ。
単に、僕たちはそういう部分で感覚が近かったり理解できるからこうして傍にいられるっていうだけで。
でも本当に、気が楽だよ。そういうことで煩わされずに済んでるから。とは言え、他に大変なことがたくさんあるから、この上、そういうことにまで煩わされたくないっていうのもあるんだよね。
沙奈子のこととか、玲那のこととか、波多野さんのこととか、田上さんのこととか、ただでさえ大変なのに、それに加えて誰が誰に横恋慕したとか誰の裸を見ちゃって悶々とするとか我慢しなきゃとか、そんなことまで構ってられないよ。
その意味ではすごく助かってる。
そんな中で、星谷さんが大希くんのことで真っ赤になったりポンコツ化したりっていうのは、それはまあ彼女自身の問題だから、僕がとやかく言うことじゃないとは思ってる。それに、単純に見てて可愛いし微笑ましいし、いいんじゃないかな。山仁さんもただ見守ってるだけだし。
星谷さんのご両親は、彼女のことをとても信頼してるらしい。彼女なら任せておいても大丈夫だって思ってもらえてるんだって。高校一年の時に学校でスクールカーストを作ろうとしたことについては厳しく諭されたそうだけど、それを自ら改められたことで一人前だと認められたってことみたいで。
確かに、自分が『こうだ!』って思ったことを自分で改めるのって大変だと思うし、なかなかできないことって気もする。実際、僕だって昔の自分の考え方や感じ方を今でも引きずってる部分はある。星谷さんはその難しいことをやってみせたんだ。本人も言ってる通り、今でも完全には変えてしまえてないみたいだけど、変えてしまえてないからこそ油断せずに自分のことを常に省みる姿勢を持つことができてるんだろうなとも思う。
でも、星谷さんの場合は、そのどれもが、『大希くんのため』なんだろうな。あの、おおらかで穏やかで朗らかで懐の深い彼に相応しい人間でありたいと思うからこそ、彼女は努力を続けられるっていうのもあるんじゃないかな。だから彼女の場合は、大希くんに対する気持ちそのものが努力の原動力にもなってるわけで、真っ赤になってポンコツ化することも、星谷さんにとってはプラスに働いてるんだって素直に思える。
それに僕だって、絵里奈と二人きりになったりしたら気持ちが昂ってしまって抑えられなくなるし、それは絵里奈も同じらしいし。
大希くんはまだまだそういうのが早いから、目覚めてないだけなんじゃないかな。いずれ時期が来れば、誰かのことをパートナーとして愛せるようになる気がする。それが星谷さんだったらいいかなってことも、今は素直に思えるんだ。
できれば沙奈子とって思ってたりもしたから、正直、残念だけどね。




