五百五十五 大希編 「我が家の居心地」
三日四日と旅館でゆっくりできたことで、僕たちはすごく満たされた気持ちになってた。これでまたしばらくは持ち堪えられるって思った。一緒にいられなくても。そして、あの事件が起きた日も、これでやり過ごせる自信もついた。
ただの気のせいかもしれないけれど、思い込みかもしれないけれど、そういう思い込みみたいなのも時には必要なんだろうなとも思うんだ。
三日は、旅館のWi-Fiを通じてビデオ通話で会合に参加させてもらった。
「いいな~」って波多野さんが羨ましそうに指を咥えてたりしたけど、みんな元気そうでホッとした。
四日にはまた山仁さんのところに行ってみんなの顔を見た。波多野さんも田上さんも変わりなく明るい表情ができててさらに安心した。
そして今日は五日。僕の会社の仕事始め。金曜日でもあるから一日行ったらまた休み。そして、絵里奈にとっても仕事始めだった。
と言っても、会社でのことは特に何も触れることもない。英田さんの後任の真崎さんももうすぐ一年になるけど、ほとんど口をきいたこともなかった。真崎さんも僕だけじゃなく他の同僚とも関わろうとしないから、独身なのか既婚なのかすら僕は知らない。
だけど、それで何も困らない。仕事についてはこれでいい。
絵里奈も玲那もいない社員食堂で、給油でもするみたいな味気ない昼食を済ますのにも慣れた。ここでの僕はただのロボットだ。心も感情も必要ない。固く固く自分を閉ざして、必要なことだけを淡々とこなす。
『仕事なんてこんなもの』
そう自分に言い聞かせる。
その代わり、家に帰れば僕は人間に戻れる。沙奈子と玲那の父親で、絵里奈の夫に戻れる。それでいい。
だけどふと思う。田上さんのお父さんは、もしかしたら逆なのかな。職場では人間に戻って、家庭ではロボットになるのかな。そうやって乗り越えてるのかな。
どちらが正しいとかじゃないと思う。正しいかどうかで言えば、どちらも正しくはない気もする。家でも職場でもちゃんと人間らしくいられるのが本当はいいんだろうな。でもそれができない場合だってあるから、それぞれ自分の状況に合ったやり方をするんだ。でも、父親が家庭で心を閉ざしてたら、子供はどうすればいいんだろう。自分を満足に見てもくれない父親の存在をどう受け止めればいいんだろう。
田上さんは、お父さんに対してはあまり気にしないようにしてるとは言ってた。不器用なだけで、根は真面目で誠実な人だっていうのは分かるようになってきたって言ってた。それがせめてもの救いなのかな。家で上手く父親としての姿を見せられないことを、娘さんは分かってくれてるみたいだから。
弟さんのことも、取り敢えず今のところは落ち着いてるみたいだ。まだまだ油断はできないけれど、誹謗中傷を投げかけてた相手から訴えられるっていう様子もない。
問題は、お母さんなのか。
とにかく、家庭ではまるで絶対君主のように振る舞うお母さんのことは、今でも苦痛らしいから。自分の娘にそんな風に思われてることを、お母さんは気付いてるのかな。気付いてないような気もするけど、気付いてても『それがどうした?』って言いそうな人らしい。
ある意味では本当にすごい人だな。あまり好ましくない意味で揺るがない人なのかもしれない。どうしてそうなったんだろうな。
だけどやっぱり、僕がこうして気を揉んでいても何も解決はしない。田上さんの家庭に僕は口出しできないから。田上さんとは親しくさせてもらってても、お母さんのことは顔も知らないし。他人のことはとやかく言えないなあ。
僕も、他人からとやかく言われるのは嫌だ。だから僕も言わない。自分がそれをされたくないから、他人にもやらない。
それに、やったところでお母さんに届く言葉を僕が言えるとも思えない。どこの誰かも分からない僕の言葉を聞くはずがないよ。
なんてことを思いながら、山仁さんのところに向かう。
でも今日も、田上さんは落ち着いた様子だった。それを確かめられて安心する。
実は、大晦日から三日まで、山仁さんのところに泊まり込んでいたらしい。もちろん家にはそのことを告げてたそうだけど、なんか、大変だな。ただ、大希くんは「キャンプみたいだ!」って喜んでたって。
しかも千早ちゃんが、
「ズルいズルい!、私も泊まりたい!」
って駄々をこねたりもしたらしい。とは言え、さすがに小学生の女の子を外泊させるわけにもいかず、しかも彼女の家は今、千早ちゃんがいないと三日で家の中が滅茶苦茶になる状態だから、家のことが済んだらすぐにここに来るって感じだったんだって。
大変だなあ。いろんな意味で。
けれどそれは同時に、子供が自分の家より他人の家の方が居心地が良いって思ってるっていう意味でもあるわけで、それは悲しいことでもあるんだろうな。だって、僕も沙奈子も、やっぱり自分の家が一番落ち着くし。旅館に一泊して、あんなに寛いでた気がするのに、家に帰った途端にホッとしたもんな。あのアパートの部屋が僕たちの居場所なんだってつくづく思ってしまった。
そう言えばイチコさんも言ってたな。
「別に泊まり込んでまで行きたいところってないかな~。温泉とかは好きだけど、やっぱり家の方がのんびりできるよ。お父さんとヒロ坊がいて、お母さんがいたこの家が一番って気がする」
って。そう思える家にいられることが、そう思える家であることがどんなに幸せなのか、改めて感じる。
星谷さんも言ってた。
「私は今、ここの空気感や居心地の良さというものをしっかりと学ばせていただいているところです。いずれ彼と家庭を築いた暁には、彼が、家族が、『帰りたい』と思える家にしなければなりませんから。それができなければ、私は彼の妻として相応しくありません」
だって。具体的にそこまで考えてるんだな。これはやっぱり、誰も太刀打ちできないかな。大希くんについては、『売約済み』ってことなのかな。
もちろん、最終的に選ぶのは大希くん自身なんだろうけど、ここまで想われてて、しかも家事もできる、気遣いもできる、仕事もできる、収入もある、人脈もある、諜報もお任せ、そして可愛いとなれば、こんなとんでもない女性を選ばないとなったら、果たして何をどうすればそうなってしまうのか、さっぱり分からないって気もする。
ただ、僕自身で考えてみると、それでも僕は絵里奈を選んでしまうんだろうな。絵里奈から感じるものが、他の女性からは、星谷さんからでさえ感じないし。
ああそうか、これが『恋』ってものなのかな。理屈じゃないんだ。その人でなきゃ駄目っていう感覚。
だけど、僕の場合はそれも、『絵里奈が僕を必要としてくれてる』っていう大前提があってのことなんだけどね。




