五百三十六 文編 「守りたいもののために」
他人がちょっと自分の気に入らないことをしたっていうだけですぐ見限ったり攻撃したりする人もいるけど、僕はそういうのむしろ大変だろうなって思う。
だって、ちょっとしたことが許せないなんて、いっつもすごいストレスを感じてるんだろうし。
結局、そういうことにいちいちイライラしないようになるのが一番確実に楽になる方法なんだろうな。
昔は、スルーして無視することでそれを回避してた。でも今は、それに加えてちょっとくらいそういうのが見えてもそんなに気にならなくなってきてる。良い気がしないのは事実でも、そればっかり気にしないで済んでる。
だから楽なんだ。
その一方で、僕たちは今、田上さんの問題で、どうすれば彼女が少しでも楽になれるか、田上さんの家庭や、特に弟さんが事件を起こしたりとかせずに済むかっていうのをみんなして考えてる状態だった。
それ自体は決して楽なことじゃない。そういうのを見ないようにして楽しいことだけ考えて笑ってたら、その時点のストレスは少なくて済むかもしれないけど、そうやって見て見ぬふりをして結果として何か重大なことが起こってしまったら結局はもっと苦しいことになるから、大変だけど考えるっていうのはある。
弟さんが事件を起こさないようにするにはどうすればいいのかっていうのは、実は田上さん自身が事件を起こさないようにするにはどうすればいいのかっていう意味もあるんだ。
『僕たちは今、幸せだ。だからその幸せを壊さないようにはどうすればいいのか』
っていうことを延々と考えてるんだ。
実際、幸せなのは事実だからね。幸せだと思い込もうとしてるわけでもないし。それをわざわざ壊さないといけない理由は何もないから。
だけど、まさか波多野さんの方がそうなるとは予想外だった。いや、もちろん考えてはいたはずなんだけど、田上さんの方に意識が向いてしまってて頭の中から抜け落ちてたっていうのも事実だった。
しかも、大切な友達の一人である田上さんを狙った性犯罪とか、ピンポイントに波多野さんの傷を抉ってくる。ましてや、田上さん自身が今、大変な状態にあるんだから。その場にいたのが波多野さんじゃなくて玲那だったりしてもヤバかったんじゃないかって気がする。単に痴漢っていう犯罪だけじゃなく、他の問題も誘発する危険性があるんだから本当に罪深いな。
許せないよ。
その時、絵里奈が話しかける。
「田上さんは、大丈夫なの?。被害の方は。それも心配…」
そうだ。波多野さんのことばかり気になってたけど、田上さん自身が痴漢被害に遭ったんだもんな。
でもそれに対しては、
「あ、はい。それは、少し触られただけですから…。ホントは大丈夫じゃないですけど、それよりもカナのことが心配で……」
とのことだった。
本来なら『少し触られた』だけでも十分に大変なことのはずなのに、それ以上に心配なことがあるから気にならないというのも皮肉な話だな。
山仁さんが言う。
「いずれにしても、ここから先は状況を見守るしかないと思います。私もそれに備えてはおこうと思っていますが」
そんな山仁さんに対して波多野さんは申し訳なさそうに視線を下げた。
「ごめんなさい…。小父さんには迷惑ばっかり掛けてしまって。
私の父親にも連絡は行ったはずなのに、顔も出さないし、お詫びの電話一つ寄こさないとか、ホント終わってますよね……」
そうだった。本来なら実の父親が身元引受人として警察に出向くところを、山仁さんが迎えに行ったというのがもう普通じゃない気がする。波多野さんのお父さんは、何をしてたんだろう。
だけど、そのことについても山仁さんは波多野さんを見詰めながら静かに言った。
「今の、カナちゃんのお父さんの状況からすれば、私としてはむしろこれでいいと思ってるよ。それに、現時点でのカナちゃんの保護責任者は私なんだから、当然のことだよ。あまりお父さんを責めないであげてほしい」
「……はい…」
山仁さんに諭されて、波多野さんは納得はできないけれど仕方ないという感じで頷いた。
自分の娘が警察のご厄介になってるというのに顔も出さない、自分の代わりに迎えに行ってくれた山仁さんに対して電話の一つもない、ということに対して憤る波多野さんの気持ちも分かる気がするし、今の波多野さんのお父さんがどういう心理状態にあるかっていうのを考えたら敢えて関わらせないでおこうという山仁さんの判断も分かる気がした。
納得はいかなくても、現状ではこれが最善なのかな。
波多野さんのお父さんは、かなり追い詰められてる状態らしい。星谷さんが手配したカウンセラーのところに通うことで辛うじてってことなんだって。田上さんの家庭のことに気を取られてたけど、そっちも大変なんだな……。
本当に、綱渡り状態だっていうのを改めて実感する。田上さんの弟さんだけじゃなくて、波多野さんのお父さんも危うい状態なんだ。そこに波多野さんが事件を起こしたとかになったら、それこそとどめを刺すことにもなりかねない。
それを考えると、千早ちゃんの家庭の問題がいい方向に向かいつつあるっていうのはせめてものことなのか。少なくともそちらの心配までしなくても済んでるわけだし。そういう意味では、僕たちの家庭が安定して上手くいってるっていうのも、余計な心配をかけない、煩わせないという形で役に立ててるんだろうな。
だから僕は、いろんな問題が周りにあっても、そこに自分まで問題を起こさないようにしつこいくらいに自分自身に言い聞かせるんだ。たとえそれが他人からは気持ち悪く見えても、不快に見えてもね。
僕自身が守りたいもののために。
沙奈子も、絵里奈も、玲那も守りたい。それに加えて今は、ここにいるみんなのことも守りたい。僕が問題を起こさないことが守ることになるのなら、そうしたい。それだけのことなんだ。
今回の波多野さんの件で、それをさらに強く実感した。
もちろん、今回のことがもし事件になってしまったとしてもみんなは波多野さんのことを見捨てたりしないだろうし、僕だって見捨てたりしたくない。玲那が事件を起こした時に見捨てられなかったのと同じで。だけど、ただでさえいろんな大変なことを抱えてるのにそこに更にっていうのはやっぱりね。
だから波多野さんのことが大きなことにならないように収まってくれればそれが一番かなと思った。
それと同時に、咄嗟にとはいえ彼女がそんなことをしてしまったというのは、背景にお兄さんの事件のこととかがあったからだっていうのも間違いない気がする。それがなかったらそこまでキレたりしてないんじゃないかな。
そういう意味でも、家庭環境が与える影響っていうものの大きさを実感してしまった気がする。あんなに大人しそうに見える沙奈子にだって、自分を容赦なく傷付けてしまうような激しいものが秘められてるんだから。




