五百三十一 文編 「家庭環境」
児童相談所での一件から約一年。沙奈子がそのことをあまり気にしてなさそうなのが確認できて、僕も絵里奈も玲那もホッとしてた。
それから四人で昼食にして寛いで、ギャラリーを出てからもしばらく散歩して、解散ということになった。
「絵里奈、愛してる」
「私もです。達さん」
なんて感じでキスを交わすと、玲那はニヤニヤと、沙奈子は嬉しそうに、僕と絵里奈を見てた。
「じゃあ、また来週」
そう言って絵里奈と玲那を見送ってから、僕と沙奈子もバスに乗る。
「沙奈子。楽しい?」
何気なく尋ねても、沙奈子は戸惑うことなく「うん」と応えてくれた。他人から分かりやすい表情は浮かべてなくても、この子はいつもいろんなことを考えて感じてくれてる。だからこうやって家族の時間を作るのは大事なんだと思う。
世間から見れば僕たちの家庭環境にも大きな問題があるように見えるだろうな。娘は二人とも実の子じゃなくて虐待の被害者で、両親が別居してて、しかも姉が事件を起こして執行猶予中とか。
だけどそういう、他人から見て分かりやすい問題がその家族にとって本当に大きな問題になってるかどうかっていうのはまた別なんじゃないかな。僕たちにとってはそれはそんなに深刻な問題じゃない。大変なのは事実でも、その時は本当に大変だったのは確かでも、けれどもう大丈夫だ。そこにいる僕達自身が、今ではその問題を苦しいとは感じていないから。特に、一緒に暮らせてないこととか執行猶予中とかは、時間が過ぎれば解決する問題だと理解できているから。
それに対して波多野さんや田上さんの家庭の問題は、まったく先が見えない、どうすれば解決するのかも分からない、とても苦しい問題だった。
お兄さんが、家族の問題とは全く関係ない人を傷付けて、苦しめて、それが翻って家族も苦しめて、ご両親は離婚調停中で、もう一人のお兄さんとは断絶状態だとか、
一緒には暮らしてるけど気持ちはもう完全にバラバラで一緒にいること自体が苦痛でしかなくて、誰もお互いを思いやれてないだとか。
けれど、そんな状況でも波多野さんも田上さんも諦めてない。苦しいけれど、その苦しさに呑まれてない。まだ正気を保つことができてる。
波多野さんに比べても田上さんは今まさに辛い状態にあるのは事実でも、それを理由に誰かを傷付けようとはしてない。ちゃんと正気を保とうと努力を続けてる。感情的になってしまったとしても、それだけにはなってしまわないようにしてる。
家庭に問題があったとしてもそうやって自分を抑えることで事件までは起こさないでいることはできるのは確かだと思う。実際に波多野さんも田上さんも危うい状態だとしても実際に抑えることができてる。
ただ、玲那も言ってた通り、たとえ事件にまではなってなくても、問題行動とかいう形でトラブルを起こしてる事例は少なくないんじゃないかなっていうのはすごく感じるんだ。たぶん、すごく耳の痛い話なんじゃないかな。『それで普通だ』って、『そういうものだ』って思いたいんだろうな。僕だって昔は『こういうものだ』って思い込もうとしてたのは確かだし。自分の家庭が変だとは思ってても、それを認めたくなかったっていう部分もあったのは確かだった。
でも、それが普通なんだったら、どうしてあんなに息苦しかったんだろう?。生きにくかったんだろう?。『生きてて良かった』『生まれてきて良かった』って思えなかったんだろう?。
社会が悪いから?。じゃあ、誰がそんな社会を作ったんだろう?。どうしてこんなにたくさんの人が生きにくい、息苦しいと感じるような社会を作ったんだろう?。普通に誰もが幸せを感じるような社会を作ればいいのに、苦しめずに済むような社会を作ればいいのに、どうしてそれができないんだろう?。
それは結局、他人を認めたり許したりする余裕がないからなんじゃないのかな?。じゃあどうしてその余裕がないんだろう?。自分は他人に認めてもらいたいのに、他人のことは認めたくないって何で思うんだろう?。
僕にはその心当たりがある。僕がそれまで幸せじゃなかったからだ。僕の家庭には幸せがなかった。だから何が幸せなのかも分からなかったし、他人の価値観とか感覚とかを認めるような精神的余裕もなかった。鷲崎さんの好意を受け入れる余裕さえなかった。
だけど、今はそうじゃない。他人が何をしててもどんな価値観とか感覚を持ってても、こちらにそれを押し付けたりしなければ好きにしてくれて構わないって思えるし、鷲崎さんの好意だってそれを認めた上で『ごめんなさい』とも言える。以前は、そういう好意を持たれること自体が苦痛だった覚えがある。結果的には僕には絵里奈がいるから鷲崎さんの気持ちには応えられなくても、その気持ちを向けられることを不快に感じたりはしない。そこまで過剰に反応しないで済む精神的な余裕がある。
だって、僕は今、幸せだから。
沙奈子がいて、絵里奈がいて、玲那がいて、お互いを支え合うことができてて、大切にできてて、精神的に安定できてるから、冷静でいられてるんだ。
だからもう、他人の些細なことが許せないって感じるのは、自分に余裕がないからなんじゃないかな。自分が幸せだっていう実感が、生きてて良かったっていう実感が、生まれてきて良かったっていう実感が、自分が大切にされてるっていう実感がないからなんじゃないかなって気がするんだ。
それが、昔の僕と今の僕を比べてみての実感なんだ。
家庭に問題があると、と言うか、家庭で安らげないと、心に、気持ちに、余裕が持てないという実感しかないんだ。昔の僕がどうしてあんなだったのかを冷静に客観的に分析してみればそういうことなんだ。
学校で誰かに嫌がらせしてる人は幸せなのかな?。
他人の陰口や悪口を言ってる人は幸せなのかな?。
ネットで他人を罵ってる人は幸せなのかな?。
会社でセクハラをしてる人は幸せなのかな?。パワハラをしてる人は幸せなのかな?。
会社で誰かに嫌がらせしてる人は幸せなのかな?。
コンビニの前にたむろして周りの人を嫌な気分にさせてる人は幸せなのかな?。
バイクで大きな音を出して暴走してる人は幸せなのかな?。
家に帰って安らいで、ホッとして、認めてもらえて、満たされてるのにそんなことしてるのかな?。もしそうだって言うのなら、どうして自分は幸せなのに他人を嫌な気分にわざわざさせようとするのかな?。そんなことしたら恨まれたりして自分の幸せを滅茶苦茶にされたりするかもしれないのに。
どうして自分の幸せを壊そうとするのかな?。
僕は、そんなことをして今の幸せを壊したいなんて思わないよ。せっかく僕のことを認めてくれる人が傍にいてくれてるのに。




