五百十九 文編 「アカウント」
僕の兄は、両親にとても『大事にされてきた』と思う。だけどそれは、兄にとっての『大事』じゃなかった。あくまで両親にとって都合のいい『大事』だった気がする。
『自分の子供を大事にしている自分に酔いたいから大事にしている』ということだったのかもしれない。兄の気持ちとかは、あの人たちにとってはどうでもよかったんだろうな。
それは結局、相手のことを大事にしてることにはならないっていうのを僕は感じてきた。相手の気持ちを無視してたら駄目なんだって。
僕たちは今、そんな両親たちの失敗を基にして自分たちの関係を考えようとしてる。自分の気持ちを大事にしたいのと同じように、相手の気持ちを大事にしたいって思ってる。
波多野さんの話を聞く限りでは、波多野さんのご両親は、そうじゃなかったみたいだ。波多野さんの気持ちを大事にしてるなら、お兄さんから嫌なことをされて『止めさせてほしい』と懇願した彼女の言葉を聞き流したりしないんじゃないかな。
そういう態度は、きっとお兄さんに対してもそうだったんだろうな。僕の両親が兄に対してやったように、『他人からは大事にしてるように見える』だけのことをしてきたんだろうな。
もちろん、僕がそう感じてるのは僕自身の解釈に過ぎないのも分かってる。だけど、当の波多野さん自身がそう感じてるっていうのは、これまで話をしてきた中で本人から直接確かめることができた。少なくとも、波多野さんがご両親に対して感じてるものは、僕が僕の両親に対して感じてたものとほぼ同じだって。
だから僕の兄が沙奈子を虐待するという事件を起こしたように、波多野さんのお兄さんは事件を起こしてしまったんじゃないかな。この流れで言うと、田上さんの弟さんも危ない状態にあるって言えるのかもしれない。そしてそれが、『ネットいじめ』という形で起こりかけてるのかもしれない。
それ以外の事件を起こす危険性も当然あるにしても、今のところは実際に同級生らしい相手に対して誹謗中傷や罵詈雑言を並べてるっていう事実は確認されてるらしい。
ただ、星谷さんはあくまで冷静だった。
『フミの弟さんのサブアカウントと思われるものは、あくまでその内容からそう推測されているだけに過ぎません。現時点ではまだ明確な物証が得られた訳ではありません。そのアカウントそのものが、フミの弟さんを陥れるための成りすましであるという可能性も捨てきれません。
ですがその点についても、相手方が法的手段に訴え、プロバイダに情報提供を求めるなどして事実確認を行えば、いずれは分かることでしょう。そうして事実を確認するためにも私は協力する用意をしています。
確証が得られないうちからフミの弟さん本人のアカウントと断定して行動するのは控えたいと思っているのです。そのように早計な真似をして万が一にも誤認だった場合には、逆にこちらが罪に問われる可能性もありますので。名誉棄損は十分に成立しますからね』
とも言ってた。そういう意味でも慎重なんだっていうのはよく分かった。思い込みで迂闊なことをしては田上さんを余計に苦しめることになるからだろうな。星谷さんだけじゃなく、みんながそうやって冷静であろうとしてるのも分かる。
また玲那が言った。
「弟くんが聞く耳持たない以上は、今の時点では弟くん本人に対してできることは限られてるのかもしれない。相手から訴えられたりするのを待つしかない状態なのかもしれない。それでもし、本当に相手から訴えられたとしても、私はフミの味方だよ」
とその時、星谷さんが口を開く。
「そのことについてなのですが、現在、フミの弟さんのサブアカウントと思しきアカウントに対して意見している人物が現れています」
そう言って、ノートPCを操作して画面を切り替えた。テレビを使ったモニターにそれが表示されて、僕たちはそれを見た。そこには、コメントの数々が一覧として並んでた。
『Nはホントに人間のクズ。さっさとタヒねばいいのに』
というコメントに対して返信がついてるのが分かった。
『そうやって他人をクズ呼ばわりしてる君は何様なのかな?』
『は?何お前。勝手にリプってんなよ。ウザイ』
『他人から見えるところに発信しておいて返信するなとはずいぶんな寝言だね』
『キモ。お前ブロックするから』
でもまたすぐその後で、
『あれ~?おかしいな。自分はそんな風に好き勝手言ってるのに他人には言わせないんだ?』
とコメントが。よく見るとブロックされたのとは別のアカウントからのコメントだった。
『おま、別垢からかよ、ストーカーキモいwwwwwww』
『他人をタヒねとか言ってるのにキモいとか言われてもな~』
『あ~分かったからさっさと消えろよお前。邪魔すんな』
『どうして?君が消えないのなら僕も消える必要ないよね』
『マジウザ!ブロック!!』
とまたブロックされたらしいのにさらに別のアカウントでコメントが。
そういう感じで延々とやり取りされてるのが表示されてた。
星谷さんが説明する。
「これは、数日前から始まったやりとりです。フミの弟さんのサブアカウントと思しきアカウントに対してずっとこの調子で絡み続けてるんです」
だって。見る限り、田上さんの弟さんのものらしいアカウントの方がすごく嫌がってるのが分かる感じだった。一方で、全体の流れで見ると、絡んできてる方がかなり冷静にも見える。
それを見た田上さんが何とも言えない笑みを浮かべて声を上げた。
「ははは!、なにこれ!?。あいつめっちゃドン引きしてんじゃん!。ってかビビってる?。まさにザマぁじゃん!!」
と嬉しそうだった。だけど僕は、そんな田上さんの姿が悲しかった。『ザマぁ』と罵る彼女からは、玲那を気遣ってくれてた時の田上さんが見て取れなかった。
人間には、どうしてもこういう一面もあるんだというのも分かってる。だけどやっぱり悲しいんだ。
するとイチコさんが、
「フミ。今のフミ、すっごい悪い顔になってるよ」
って一言だけ。
その瞬間、田上さんがハッとなった。
「…あ、そ…、そう?。それはヤバいかな…。ごめん」
と気まずそうに小さくなった。そんな風に指摘されて気付けるというのはまだ救いがあるって気がした。田上さん自身が、顔を歪ませて罵ってる自分のことを恥ずかしいと思ってくれてるんだろうな。だからこそ、他人からその行状を指摘されても罵ることをやめようとしない弟さんのことが許せなくなってしまうんだろうなとも感じた。
そこでまた、星谷さんが発言した。
「この、絡んできている側のアカウントについては、詳細はまだ分かっていません。ただ、かなり慣れた人物のようで、最初のコメントをしたアカウントの過去の発言を掘り返しても、本人を特定できるような情報はまったくありませんでした。どうやら、他人にこうして意見するためだけのアカウントのようですね」




