五百十八 文編 「良い場面」
『尊敬できないような人を尊敬なんてしなくていい』
玲那がそう言い切ってしまうのは、僕の影響かもしれない。これまで散々、そういう話をしてきたから。僕と絵里奈と玲那とで、いろんな話をしてきたから。その中でお互いに影響し合って、僕たちの考え方はある程度のすり合わせが行われているんだと思う。お互いに自分の中に定着してるけど、元々はそれぞれの考え方だったものもあるんじゃないかな。
自分がどういう人間かを知ってもらって、相手がどういう人間かを知るには、結局はお互いに話し合うしかないんだと思う。でないと、行動とか態度だけだと『分かった気がする』だけだと思うんだ。
人間って、どうしても自分の解釈を加えて物事を理解しようとするところがあると思う。その人のことを良く知りもしないのに、表面上の一面だけを見て『こういう人だ』と決め付けてるのなんて、まさにそういうことじゃないかな。
僕はもう、それでいいとは思わない。
もちろん、全ての人を深く理解するなんてできるはずもないから、表面的なことだけである程度判断して『敬して遠ざける』ことをする必要もあるんだとは思うけど、少なくとも自分と深く関わることになる人に対してはそれだけでは駄目だとも感じてるんだ。
館雀さんはギリギリそういう範囲になるのかな。あとは、僕の会社の上司とか同僚とか。
特に上司なんて、典型的なパワハラ上司だと思う。延々と嫌味を言って僕に『辞めます』と言わせようとしてるのがすごく分かる。僕にとっては本当に嫌な人間の代表格なんだろうな。だけど、そんな上司にだっていろいろな事情や背景があって人生があって価値観があるというのは忘れないでおきたいと思うんだ。単なるフィクションの中の『嫌われ役』だと解釈して分かった気になるのは拙いって。
それをするってことは、自分が他人からそういう風にされるのも認めなきゃいけないってことだと思うんだ。ほんの表面的な部分だけを見て決め付けられるのを認めなきゃいけないって。自分は他人の表面的なところしか見ないのに、他人からは自分の表面的な部分だけじゃないところまで見てほしいとか分かってほしいとか望むのなんて、ムシが良すぎると思うんだ。
当然、自分がそうやってても他人が同じようにしてくれるとは限らない。だけど、少なくとも自分が他人の表面的なところだけで判断しないようにしてるのなら、相手に対して指摘するくらいはできるんじゃないかな。それでもちゃんと見てもらえるとは限らないけど。
そういう意味では、波多野さんのお兄さんやご両親や、田上さんのご両親や弟さんのことも、表面的なことだけで全部分かった気になるのはなるべく控えようと思ってる。田上さんへの態度だけで『最低な人たちだ!』と憤ってしまわないようには気を付けたい。別にそんなことをしなくたって田上さんのことを支えることはできるはずだし。
玲那がさらに言う。
「自分の方からどう譲歩したって尊敬も信頼もできない親だったら、もう尊敬も信頼もしなくていいと思うよ。同じ家に住んでるだけの赤の他人でいいじゃん。そのために、『レンタル家族で集まってるだけ』っていう設定で家に帰るんだよね?。それ、いいアイデアだと私も思った。私もあの人たちを自分の親だなんて思ってなかった気がする。私を誘拐してきたただの誘拐犯だくらいに思ってたかもしれない。あの頃の記憶は、正直、曖昧な部分も多いけどね。
いいよね。家の外にこうやって集まれる場所があるのってさ。私もこういうのが欲しかったなって思う。でも、今はもう必要ないけど。
フミもいつかは、自分が安心して『帰りたい』って思える家庭が持てればいいね。それまでは私たちが家族ってことでいいじゃん。私もう、フミのことを妹みたいに思ってるよ」
「玲那さん……」
潤んだ眼で玲那を見詰める田上さんの表情は、どこか安心したみたいな感じにも見えた。イチコさんたちだけじゃなく、玲那や僕や絵里奈も田上さんのことを家族のように思って、受け止めてあげたいと改めて思った。玲那はそれこそ完全にそのつもりなんだと思う。それに、玲那はそういう子だから、あの事件の時に田上さんたちにも支えてもらえたんだってやっぱり思える。
ただ、表面的なことだけで分かった気になるのは良くないと思ってても、田上さんの話を聞くほど、彼女のお母さんがどうしてそんな人になってしまったのかっていうのが気になる。自分の実の娘にまでこんな風に思われるとか、もうそれ自体が不幸なんじゃないかな。これで尊敬しろとか信頼しろとか言われても、さすがに無理があるってどうしても思ってしまう。
イチコさんたちに支えられてる田上さんでさえお母さんのことをそう感じてるんだから、弟さんなんてそれこそ家庭の中では孤立してる状態なのかな。尊敬も信頼もできない人と一緒に暮らしてて、家にいても安らげなくて、帰りたくないのかな。
僕なんて、仕事が終わったらとにかく真っ先に沙奈子や絵里奈や玲那の顔が見たいのにな。だけど実の両親の顔については、今ではもう記憶も曖昧になってる。両親の顔をまともに見てこなかったからだろうなって気がする。
そうだ。僕は両親の顔をまともに見た記憶がない。第一、まず両親が僕のことをまともに見てなかった。僕の方をちゃんと見てる両親の姿を見た覚えがない。いつも面倒臭そうに顔を背けたまま最低限のやり取りしかしてなかった。『おはよう』『おやすみ』『いってきます』『おかえり』という言葉すら交わした覚えがない。
うん。本当に、赤の他人ですらここまでよそよそしくしないんじゃないかなっていうくらいあの人たちとの間には何もなかった。
田上さんがご両親に対して同じように感じていたのなら、それこそ僕の口からは『家族の絆を取り戻すべきだ』なんて到底言えない。いまだにそんなことをしたいと思えないから。
確かに、ここで『家族の絆を取り戻すべきだ!』って田上さんに面と向かって言う方が盛り上がるのかもしれない。良い場面になったりするのかもしれない。でもそんなの、僕たちにとってはどうでもいい赤の他人にサービスすることにしかならないんだろうな。
生身の人間って、そんな単純じゃないんだ。それだけで気持ちが完全に切り替わったりしない。一時的にはそういう気分になれたとしても、たぶん続かない。盛り上がった気分が落ち着いて冷静になってみると、『やっぱり無理』って思ってしまうんじゃないかな。僕自身がそうだから。
でも同時に、田上さんの弟さんのことについては、関係を修復するとかいう以前に、それこそ今の家族の関係にとどめを刺すような真似をしでかしてしまう危険性もあるんだろうな。もしかすると、波多野さんのお兄さんが事件を起こしたのも、こういう流れだったのかもしれない。




