五百十六 文編 「折り合い」
絵里奈は、僕たちの家庭を、家族を守りたいっていう気持ちを『欲望』だと言った。それは僕の実感と同じものだった。僕も自分のこの気持ちを『欲望』だと思ってる。『愛』って言葉じゃ、どうしてもピンとこなかったから。
愛と言った方が体裁はいいだろうし通りもいいかもしれないし共感されやすいのかもしれない。だけど違うんだ。僕は他人に共感してもらうために耳に心地いい言葉を使いたいとは思わない。僕が共感を得たいのは、見ず知らずの他人じゃない。こうやって僕の手が届く範囲にいる人だけなんだ。
沙奈子と、絵里奈と、玲那と。この三人だけでいい。
ただ、本当に幸いなことに、そのすぐ隣に山仁さんたちがいてくれたことで、僕たちの幸せはまた少し大きくなった気がする。細かい部分ではいろいろ違ってても、お互いを大切にしたいっていう気持ちの部分では共感できる人たちと出会えて、ちょっぴり手が届く範囲が広がった気がするんだ。
その中に、田上さんもいる。
今はまだ、田上さんの本当の家族はこんな風に寄り添い合うことができないのかもしれない。ただ同じ場所に住んでるだけの赤の他人に等しい存在なのかもしれない。だけどいつか、こんな風に寄り添い合える家族が見付かればって思う。そういう家族を作るための方法を見付けていきたいと思うんだ。
本来なら、今の家族とそうなれるのが理想なんだろうな。そうなれれば一番だって僕も思う。だけど、元の家族とは結局そうなれなかった僕がそれを言うのは筋違いだとも思うんだ。
人間って、一度『こうだ』と思ってしまったことを簡単に変えられる生き物じゃないっていうのは僕もすごく感じてる。僕自身、両親のことも兄のこともまったく許してない。絵里奈もそうだし、玲那に至っては両親だけじゃなく今でも許されるのなら復讐して回りたい相手がたくさんいるっていう。
それはもう、たぶん、死ぬまで変わらないことなんだろうな。
だから、たとえ血の繋がった実の家族であっても、同じなんだ。一度憎んでしまった相手を本当に完全に許せるようになるのは、とてもとても難しいことなんだと思う。離れてしまった心を元に戻すのなんて、およそ現実的じゃないんだろうな。
そうなるともう、現実的な対処としては、今をなんとか乗り切って、新しい家族を見付けるまでしのぎ切るって形になるのか。
こんな風に言うと、『そうじゃない!』って怒る人もいるかもしれない。いや、実際にいると思う。『家族の絆を取り戻すことを目指すべきだ!』って言う人もいると思う。
だけど現実の問題として、『加害者』を許すことができるのかな?。
僕の両親が僕に対してしたことは、精神的なネグレクトだった気がする。
絵里奈の両親、特にお母さんがしたことは、精神的な虐待だったらしい。
沙奈子や玲那に至っては、精神的にも肉体的にも徹底的に痛めつけられた、十分に刑法犯として処罰することもできる紛うことなき『虐待』だ。自分に対してそんなことをした『加害者』を、心から許せるなんてことが、フィクションの中以外で有り得るのかな……?。
僕には到底できそうにない。だから僕は、僕たちは、自分を聖人とは思わないんだ。一度憎んでしまった相手を本当に許すことなんてできないから。
でも、許せなくても、いちいち攻撃したりしないようにはできる。敬して遠ざけて関わらないようにすることはできるんだ。そうやって当たり障りないように、新しいトラブルを作らないように、傷口を余計に広げることをしないようにはできるんだ。
僕は、沙奈子に対しても玲那に対しても『許せ』とは言わないようにしようと思ってる。だって、僕自身が、憎んでる相手を許せてないから。自分にできないことをやれとは言えないから。
けれど同時に、憎いと思う気持ちに振り回されないようにはなれるから、もしかしたら沙奈子や玲那にもそれができるかもとは思ったりもする。そして実際、今では沙奈子も玲那もそれができてる。
許せなくてもいいんだ。憎いと思う気持ちを捨ててしまえなくてもいいんだ。それに振り回されて自分で自分を傷付けたりしないようにさえできればね。僕たちはそれを心掛けてるだけなんだ。
残念ながら田上さんは、もう既にご両親のことや弟さんのことを憎んでしまってる。そうなってしまうと、なかったことにするのは本当に難しい。少なくとも僕にはできない。だからそうしろとは言えない。僕に言えるのは、今を乗り切ってほしいってことだけかな。
四人で抱き合って自分達が家族なんだっていう実感に浸って、解散っていうことになった。この実感があればまた一週間、頑張れると思う。
アパートに戻って午後の勉強をして一息ついて夕食を済ましてってしてから、山仁さんのところに行く。
するとさっそく田上さんが話しかけてきた。
「玲那さんやみんなのおかげで何とか持ち堪えることが出来てます。ホント、人生って大変ですよね」
確かに。それについては共感しかない。高校の頃は僕自身、人生で最も酷い時期だったっていう覚えがあるし。
田上さんは続ける。
「お父さんのことは割ともう諦めがついてる感じなんです。ピカとのことでいろいろあった時に、お父さんのおかげで問題が解決しましたから」
田上さんのその言葉に、星谷さんが珍しく申し訳なさそうな顔をして小さくなっていた。無理もないのかなって感じる。何しろその頃の星谷さんは今では信じられないくらいに横暴で独善的で、学校にスクールカーストを作ろうとしてたらしいから。ただそれは結果として、星谷さんのお父さんにばれたことで頓挫して、それがきっかけで自分を冷静に見られるようになったらしい。
その際に、星谷さんのお父さんがお詫びのために彼女を連れて家を訪れた時に見せた田上さんのお父さんの対応には、それまでのだらしなくて家のことには無頓着で自分達のことは見てもくれなかったのとは違う、社会人としてのお父さんの姿を見ることになって、少しだけ見直したらしかった。そういうのもあって、お父さんのことはお母さんや弟さんに対する気持ちとは差があったみたいだった。
でもその後はまたやっぱりだらしなくて家のことも子供のことも関心がなさそうな姿しか見せてないから、どうしても尊敬する気にはなれなかったんだって。
それもなんだか分かる気がした。何か一つ、いいところを見せたって、それまでの積み重ねが全部帳消しになる訳じゃないっていうことなんだろうな。そんな都合のいい話しはなかなかないんだ。しかも、見直してもいいかなって思ってしまった後にまたそれだから、余計に自分の気持ちをどう持っていけばいいのか分からなくなってしまったんじゃないかな。
でもなんとかそれについては田上さんの中で折り合いがつけられそうな感じなのかもしれないな。




