五百十四 文編 「仲の良いカップル」
ハムラビ法典のことについては、僕も聞いたことはある。以前にも考えたことがある気もする。あれは復讐を推奨してるんじゃなくて、実は勝手な復讐を行うのを禁止するための法律なんだって。
目を潰されたら目を、歯を折られたら歯をって、『罰の上限』を決めてるだけなんだって。だから実際には、目を潰されたからって必ずしも加害者の目を潰すわけじゃないし、家族を殺されたからって殺すわけじゃないってことだったらしい。あくまで『罰の上限』だから。
それで言うなら、玲那のしたことはハムラビ法典にさえ反する行為だったっていうことなんだろうな。玲那はそのことを言ってるんだって分かった気がした。
「うん、聞いたことがあるよ」
僕が応えると、彼女は嬉しそうに笑った。
『良かった。さすがお父さん。あの人たちとは違うね。
あの人たちは、本当に身勝手でどうしようもない人たちだった。なんでも自分の思い通りにならないと気が済まなくて、自分の思い通りになる世の中こそが正しいと本気で思ってるような人たちだった。
私、どうしてあんな人たちの子供として生まれてきちゃったんだろうってずっと思ってた。
でも、でもね。そのおかげで、今、こうしてお父さんの娘としてここにいられるんだよね。それは間違いないことなんだよね』
メッセージを送りながら僕を真っ直ぐに見詰めるこの時の玲那は、やっぱり十歳くらいの幼い子供に見えた。他の人たちには全くそう見えなくても、僕には確かにそう見えたんだ。
だから僕は応えるんだ。
「そうだよ。いろいろあったかもしれないけど、そういうすべての結果として今があるんだ。僕も両親からは『要らない子』扱いだったけど、それがこうして玲那のお父さんになれたんだから、そっちの意味ではあれも必要なことだったのかなって思えるよ」
そう言った僕の顔も、すごく穏やかな感じだったんだろうなって自分でも感じた。
『お父さん、大好き。愛してる』
これまでにも何度も目にした言葉でも、何度でも目にしたいと思える言葉だった。それが嬉しくて、僕は大きく頷いてた。
「僕もだよ、玲那」
こうやっていられる限り、僕たちは無駄に他人を恨まないでいられると思う。田上さんの弟さんのことも、正直な気持ちとしては許せなくても、自分たちにとってはそれほど重要でもない人のただの妄言って考えればスルーもできる。
だけど同時に、田上さんにとっては『無関係な他人』じゃないんだ。いくら『レンタル家族としての仕事で集まってるだけの職場の同僚』と自分に言い聞かせてみても、完全にそう思い込めるほど人間っていうのは簡単じゃない。田上さんにとっては血を分けた実の弟であり、家族なんだってことも現実だって分かる。
『お父さん。私やっぱり、フミのことを支えてあげたいって思う。
カナが、お兄さんの裁判がちっとも進まないとか、両親が離婚調停中とか、ぜんぜん状況が良くなってないのに開き直れるようになってきてるみたいに、フミもいつかはって思うんだ』
僕と同じことを、玲那も考えてくれてる。それがとても嬉しかった。
「そうだね。不幸な中にいたって小さな幸せは掴めるって僕たちは実際に確かめてきた。事情を知らない他の人たちから見たら僕たちはきっと不幸のどん底にいるように見えると思う。でも僕はちゃんと幸せだって感じられてる。玲那がいて、沙奈子がいて、絵里奈がいてくれるのが僕の幸せなんだよ」
『うん。私もだよ。私は今、ちゃんと幸せなんだ。だからこれからもっともっと幸せを増やしていきたい。そのためには、フミが悲しんでたり苦しんでたりしてちゃだめなんだ。フミのそういう顔を見るのは私にとっては幸せじゃない。
フミの家庭の問題は簡単には解決しないって私にも分かってる。自分がそうだったからね。だけどまだ、少なくとも私の実の両親みたいなことまではしてないっていう点で、救いがある気もするんだ。もちろん、フミにとっては大きな問題だから軽々しく『気にするな』なんて言えない。でも、他に幸せなことがあれば埋め合わせできることかもしれないとも思うんだ』
本当に、この子はどこまで優しいんだろうって思う。自分があんなに苦しんできたのに、それを盾にして安易に『我慢しろ』って言わなんだもんな。
そう。玲那が経験してきたことに比べれば、田上さんの家庭の問題なんて些細なものに見えるかもしれない。我慢できる程度のものに思えるかもしれない。
けれど、そうじゃないんだ。その苦しみの中にいる本人にとっては、本当に苦しいことなんだ。他人のそれと比べるようなものじゃない。比べようのないものなんだ。玲那は、それを知ってる。理解してる。だから『私に比べたら大したことないんだから我慢しろ』って言わないんだ。それがこの子のすごいところだよ。
僕は、そんなこの子を幸せにしてあげたい。今が幸せだっていうのなら、それがずっと続くようにしてあげたい。そのためにできることをするんだ。この子が田上さんの力になりたいって言うのなら、僕もそれに協力する。そうできることが僕にとっては何よりだから。
僕と玲那がそうやって話をしてると、そこに沙奈子と絵里奈が戻ってきた。両手に荷物をいっぱい持って。
僕たちを見た絵里奈が言った。
「こうして見ると、達さんと玲那は仲の良いカップルにも見えますよね」
普通に考えたら嫌味にも思えるかもしれない言葉だけど、それを言う絵里奈の顔はすごくホッとした感じの笑顔だった。仲の良いカップルがイチャイチャしてるように見えるくらい玲那が幸せそうにしてるのが嬉しいんだと分かった。
その時、沙奈子が玲那の隣に座ったのを見て、絵里奈が言う。
「沙奈子ちゃんはお父さんの隣じゃなくていいの?」
沙奈子が応える。
「うん。お父さんのとなりにはお母さんが座って。私はいっつもお父さんと一緒にいられてるから、今はお母さんがお父さんと一緒にいる時間だから…」
そう言った沙奈子の顔も、とても優しい穏やかなものだと感じた。この子も本当に他人を思い遣ることのできる広い心を持った子だって改めて感じた。だからこそこの子はみんなに大切にしてもらえるんだ。絵里奈にも、玲那にも、鷲崎さんにも、大希くんにも、千早ちゃんにも、星谷さんにも、イチコさんにも、波多野さんにも、田上さんにも。
「ありがとう、沙奈子ちゃん。沙奈子ちゃんのお母さんになれたのが本当に嬉しい…」
僕に寄り添うように座りながら、絵里奈も応えた。
すると玲那がスマホを操作して何かまたメッセージを書き込んでた。
『沙奈子ちゃん。私とお父さんがべったりだったから、今度はお母さんの番って思ったのかな?』
僕のスマホにも届いたそのメッセージを、玲那は沙奈子に見せていた。
それを確認した沙奈子は、「うん」とはっきり頷いてたのだった。




