五百十二 文編 「執行猶予」
玲那は今、執行猶予の期間中だ。だからもし、懲役もあるような事件を起こしたりしたら執行猶予は取り消され、実刑として刑務所に服役することになる。そんなことになったらそれこそもう何もかもが台無しだ。僕としてももちろん、そんなことは認めるわけにはいかない。
かと言って、もし他の誰かが玲那の代わりに田上さんの弟さんに折檻を与えたりしてそれが事件化したら、玲那が関係してるって世間に知れたら、やっぱりどんなことになるか分かったものじゃない。
世間はそんなに甘くないんだ。
復讐や報復を正しいことだと思ってる人なら、たぶん、『ビンタとか当然許されるべきだろ!』って言うかもしれない。だけどそういう風に思ってる人の中でさえ、『殺人未遂の加害者が中学生にビンタした』となったら、
『そらみたことか。やっぱり人殺しは反省とかしないんだよ!』
『人を殺そうとするような奴は反省も更生もしないんだからさっさと死刑にしろ!』
『こうして再犯するの分かってるのに死刑にしないとか、裁判官や弁護士は責任取れんのかよ!』
とか言うのがいるって目に見えるようだ。
だよね。玲那の事情とか知ったことじゃない、無関係で無責任な第三者なんだから。
田上さんの弟さんもそういうことを言ってたのかもしれない。田上さんが『正義ぶって』って言ってたから、たぶん、世間で言うような正義に則った内容なんだろうな。だから、彼の方が『正義』だと考える人もきっと多いんだと思う。そんな彼にビンタなんてしたらそれこそ、って感じだよ。
それが分かってしまったから、田上さんも口ごもってしまったんだと思う。
きっと、そういうことについてみんなでたくさんたくさん話し合ったんだろうな。だから意見のすり合わせができてて、ある程度の共通した認識ができてるんだろうな。星谷さんが安易な罰を与えようとしないことが、それを物語ってるんじゃないかな。
玲那が言う。
「フミ。分かってるじゃん。執行猶予中の私がそんなことしたらそれが取り消されるってことは、他の人がやっても罪を問われる場合があるってことなんだって。
罰を与えるのって本当はすごく難しいことなんだと思うんだ。だから私の時も何ヶ月もかけて裁判して、裁判員や裁判官が何度も証拠を見ながら何度も話し合ってようやく結論が出たんだ。
今の私はただ、懲役っていう罰の執行を猶予されてるだけ。決して許されてるわけじゃないんだ。自分で自分のやったことを反省し続けて、悔い改めて、真人間に戻るようにって言われてる状態なんだ。
世間では執行猶予なんて無罪放免と同じだと思われてるかも知れないけど、そうじゃないんだよ。『自分で自分を制御できるようになれ』っていう罰なんだ。
もっとも、世間で無罪放免みたいに思われてるってことは、実際にそういう判決を受けた人間にもそう思ってるのがいるってことなんだろうけどさ。そういうのが、執行猶予中とか仮釈放中でも事件を起こしたりするんだろうな。
ホント、何やってんだかって思うよ」
やれやれという感じで肩をすくめて頭を振る玲那に、田上さんは「ごめんなさい……」とまた頭を下げた。
「そこでちゃんと『ごめんなさい』って言えるのがフミの偉いところだと思うよ。
大丈夫。弟くんのしたことは私個人としては許せないけど、そんなことをされても仕方ないくらいの事件を私は起こしてしまったんだし、フミがそうやって弟くんのしてることを良くないことだって思ってくれてるだけで私は救われてる。
ありがとう、フミ」
ここまでのやり取りを、昨日のと同じだと感じる人もいると思う。昨日もしたことを何でまた繰り返してるんだよと思う人もいると思う。でも、田上さんにとっては違うんだ。それぞれが意味のあることなんだろうな。こうやって何度も何度も答えてもらって、その度にちょっとずつ納得して、理解して、そして身に付いていくんだろうな。僕が何度も何度も同じことを繰り返し考えてるのと同じことなのかもしれない。
言葉で分からせるっていうのは、こういうことなんだと思うんだ。一回で完全に理解して納得して身に付くことなんて実はそんなになくて、こうやって何度も何度も同じようなことを語って、そしてようやく分かっていくんだと思うんだ。一回や二回言っただけで分からなかったからって『言葉で言っても分からない』なんて、むしろ言葉で伝えるのが面倒臭いからって甘えてるとしか思わない。
相手が分かってくれないのは、伝え方が適切じゃないからだ。言葉の選択が適切じゃないからだ。
僕はそう思うんだ。
今度は波多野さんが口を開いた。
「玲那さんの言うとおりだと思う。
私も、バカ兄貴についてはこの手で殺してやりたいくらいだよ。でも、フミはそれを止めてくれたじゃん。あいつがいくら許されないことをしたからって私があいつを殺したら殺人になるって止めてくれたじゃん。それと同じことだよ。
罰を与えるにしたって、それはちゃんと法律の範囲内で手順を踏んでやらなきゃいけないんだ。私もそれが分かったから、今はこうやってあいつの裁判の結果を大人しく待つことができてるんだよ」
「カナ……」
さらにそこに星谷さんも加わる。
「そうですね。私も、犯罪者なんて片っ端から排除すればいいと思っていました。いえ、本音で言えば今でもそう思っています。ですが、物事というのはそんなに単純じゃないんです。カナのお兄さんの事件や玲那さんの事件がそれを教えてくれました。
事件について、事件に対してどう対処すればいいのかについて調べるほどに、私は、一面だけを見て判断することの危険性を痛感しました。
フミの弟さんの行いは浅薄で軽薄で無思慮で稚拙だと思います。しかし、世間ではそれが『正しい』と思われている場合が多いこともまた事実なのです。ここで迂闊な真似をすれば、それは玲那さんにとって逆に不利に働くこともあるんです。『犯罪者を庇うのか!?』って思われてしまってはむしろ状況は悪くなると思います。
故に私は、玲那さんの名誉を回復することを目的に、フミの弟さんに対処することは敢えてしないでおこうと考えています。
ただ同時に、玲那さんの件とは関係のないこと、彼の同級生に対する誹謗中傷については、これ以上エスカレートするようであれば、もしくは中傷を受けた側が何らかの行動に出るようであれば、それを支援するという形をとる可能性もあります。
現時点ではあくまで仮定の話ではありますが、誹謗中傷を受けた側が告訴に踏み切るような場合については、そちらを支援する場合もあり得ることを、覚悟しておいてください。弟さんはまだ中学生ですので、実質的にはご両親を相手取って裁判を起こすということにもなるでしょう。
なるべくそうなる前に彼には自らの行いを改めていただきたいと思うのですが」
「ピカ…。うん、分かってる。それでいいよ。やる時はやっちゃって。徹底的に……」




