五百九 文編 「復讐者の言葉」
月曜日。田上さんの弟さんがネット上で何をやってたかっていうのが分かっても、僕たちは特にいつもと変わらなかった。玲那もさほど気にしてないようだった。
『だって、今さらだし。このくらい大丈夫だよ』
昨日、『ごめんなさい』と頭を下げる田上さんに対して、玲那は笑いながらそう言った。本当にまったく気にしてないって言ったらそうじゃないのかもしれないけど、でも、眉を吊り上げて『許せない!!』みたいなことを言わなくても大丈夫っていう意味ではそうなんだと思う。
仕事が終わって沙奈子を迎えに行った時も、申し訳なさそうにしてる田上さんに、
「フミ、元気出して。フミの責任じゃないんだから」
って。
そんな玲那に田上さんが言う。
「玲那さん…。どうすれば玲那さんみたいになれますか?。憎い相手とか、ムカつく相手とかを許せるようになれますか…?」
すると玲那は少し考える仕草をしてからゆっくりと答えた。
「許してるっていうのとは、ちょっと違うかな。私は今でもあの人たちのことを、元の両親のことを憎んでるし、私に酷いことをした人たちのことを憎んでるよ。ぜんぜん、許してなんかいない。
だけどさ、憎んでるからって、許せないからって、じゃあどうすればいいのさ?って話なんだと思う。
私の元の両親は二人とも死んじゃっていないからどうしようもないけど、客だった人らはまだのうのうとしてるのもいるんじゃないかな。何人かは他に事件を起こして逮捕されたりとかしてたのをニュースで見たりしたけど、私も全員の顔まで覚えてるわけじゃないから、それこそ何もなかったみたいに平穏に暮らしてるのもいると思うんだ。
そういうのを考えるとたまらない気持ちになることもあるのはホント。罪にならない、誰からも責められない、私の大切な人に何も迷惑が掛からないっていうんだったら、今からでも全員探し出して一人一人復讐したいって考えたりすることがあるのもホント。
でも、そんなことできないんだよね。あの人を刺しちゃって、それが世の中からはどんな風に見えてるかってことを思い知らされちゃったからさ……。
他の人にとってはさ、結局は他人事なんだよ。私がどんな目に遭ってきたかなんて知らないし、知ろうともしないし、実感もないんだ。そういう人たちに分かるのは、私が『実の父親を殺そうとした』っていう部分だけ。他人から見たら私は所詮、『人殺し』なんだよ。だから、ちょうどいい攻撃相手でしかないんだ。警察に逮捕されて、拘留されて、反撃も反論もできないダルマ状態の絶好の的だったんだよ。
しかも、私の周りの人に対してもそのとばっちりは及ぶんだ。絵里奈にも、沙奈子ちゃんにも、お父さんにも、みんなにもね。
だから私はもう、復讐なんてしない。したくてもしない。復讐してすっきりするより、私の大切な人達が苦しむことになるのがイヤ。許せない。
それにさ、実際にあの人を刺してみて分かったんだ。こんなことしたって私がされたことは帳消しにならないって。なかったことにならないって……。
そりゃそうだよね。起こってしまったことは消せないんだから。あんなことをされる前の、きれいな体には戻れないんだからさ……」
画面の向こうから僕たちを真っ直ぐに見詰める玲那の目からは、涙がこぼれてた。あの子が今でも抱えてるものが改めて吐き出されてるんだって分かった。
「……」
僕たちは、言葉もなかった。今、何を言っても玲那のそれにはまったく敵わないと思った。あの子が実際に経験し、感じ、考え、決断したことには遠く及ばないと思ってしまった。
俯いて顔が見えなくなって肩が震えてる絵里奈の隣で、涙を流しながら僕たちを真っ直ぐに見詰める玲那が尋ねてきた。
「フミ…。私は、フミの弟くんのやってることが許せない。卑怯だと思う。だけどさ、だからって私がフミの弟くんに何か仕返しして、私がすっきりすると思う…?」
「……!」
その問い掛けに、田上さんは俯いて頭を横に振った。それしかできないんだと思った。そんな田上さんを見て、玲那はフッと微笑んだ。
「そうだよ。フミが感じたとおりだよ。そんなことしたって私は何もすっきりとかしない。私はそれを、身をもって確かめたんだよ。憎い相手を殺そうと思って刺して、何もかも終わらそうとして自分の喉も刺して……。
でもさ、そんなことしたってなんにも変わらない。なんにも変わらなかったんだよ……。ただ、世間の憂さ晴らしの絶好の的になって、余計にイヤな思いをしただけなんだ……。
結局、そういうことなんだよ……。
仕返しとか復讐とか、そんなので本当にすっきりできるのって、当事者じゃない、傍から見てる無関係な第三者だけなんだ。元々何の被害も受けてないから、何も失ってないから、何も傷付いてないから、ムカつく相手が報いを受けただけで『あ~、スッキリ』ってできるんだ。最初から何もなくて、ただ『ムカつく』っていう気持ちしかないからね。しかも、仕返しとか復讐が行われたことで自分に何かが跳ね返ってくることもない。あの人を刺した私が言われたみたいに『人殺し』とか言われることもない。その程度だからスッキリできるんだよ。
もっとも、私も、自分がこうならなきゃ、その『無責任な第三者』だったと思うけどね……。
フミ、私はフミに対してしてあげられることは何もないかもしれない。フミの苦しみはフミ自身のものだから、私にはどうすることもできないのかもしれない。
だけど、だからこそ、フミには私と同じになってほしくないんだ。どうしようもないことで誰かを憎んで恨んで腹を立てて、自分の傷を自分で広げて踏みにじるようなことをしてほしくないんだ。
弟くんのしてることは、弟くん自身の問題だよ。それでフミが苦しむ必要はないんだ。それで苦しむフミを、私は見たくない。もちろんそれは私の身勝手な想いでしかないのも分かってる。でも、正直な私の気持ちだよ……」
「…玲那さん……」
頭を上げて玲那を見た田上さんの顔は、涙と鼻水で酷いことになってた。けれど、それが田上さんが感じたことそのものだというのがすごく分かった。玲那の言葉にどれだけ揺さぶられたのかが、僕にも分かった気がした。
この日の会合は、結局、ほとんど玲那のその話だけで終わった。他に誰が何を言っても、その時の玲那以上のことが言えた気がしなかった。
被害者として苦しめられてきて、そして限界まで追い詰められて結果として復讐を行って、さらにそれが何をもたらしたのかを自分自身で経験した玲那にしか言えないことだと思った。
これで田上さんの弟さんがしたことが許されたわけじゃない。玲那自身が彼のことを『卑怯だ』と切り捨てたように、許したわけでもない。ただ、それで田上さんが苦しむ必要はないと言っただけなんだ。
それで田上さんが少しでも救われたらと、僕も願わずにはいられなかった。




