五百六 文編 「細い細い糸」
『一緒にフミのこと支えてあげたいよ』
玲那がそう言った時に、星谷さんがフッと目を逸らすのを僕は見た。それまで照れて真っ赤だった顔がすうっと冷めていくみたいにも見えた。その時はたまたまかなと思ったけど、夕方、山仁さんのところに集まった時、姿勢を改めて、玲那に向かって彼女は言った。
「フミを支えてあげたいと思ってくださる玲那さんのお気持ちは大変嬉しいです。でも、だからこそお知らせしておかないといけないこともあると改めて感じました」
その声のトーンと表情に、僕たちも思わず姿勢を正す。
「フミの弟さんのことです。ネット上の彼のサブアカウントまで辿って発言を掘り起こしていて分かったことですが、玲那さんの事件について、彼はいろいろと発言していました」
「…!」
そう言われた瞬間、僕も絵里奈も玲那もピンと来てしまった。何気なく田上さんに視線を向けると、いつも以上に表情が硬くて蒼褪めてるようにも見えた。
星谷さんが言う。
「現状では、現実世界での彼の素行については今すぐに対処しないといけない部分は見られません。ですが、ネット上での彼の振る舞いには目に余る部分があると言わざるを得ません」
そこでいったん言葉を区切って、僕たちの反応を見るように彼女は視線を送ってきた。特に玲那と田上さんのことを意識してる気がした。
星谷さんのノートPCを山仁さんのところのTVに繋いで映し出された画面の中の玲那については、真っ直ぐにこちらに視線を向けてて表情もしっかりしてるのが分かったから今は大丈夫だと思う。だから田上さんの様子を僕も気を付けてみた。
でも、田上さんの方も、顔色は決していいとは言えなくて緊張した感じはあったけど、視線には力も感じるし、今のところはまだ大丈夫かなって気もする。
星谷さんもそう感じたのか、またゆっくりと話し出した。
「具体的な内容についてはここではあえて触れませんが、玲那さんの事件について、彼の発言は、非常に一方的で近視眼的で狭隘で配慮に欠けるものであったと言わざるを得ません。しかもそれを本来のアカウントとは別の、他人のふりをしたアカウントで行っていたのです」
そこまで星谷さんが話したところで、田上さんが「ごめんなさい!」って突然声を上げて頭を下げた。
「あいつ、玲那さんのことを滅茶苦茶に言ってたんです。玲那さんがどれほど苦しんできたのか知りもしないクセに、正義ぶって好き勝手…!」
やっぱり……。
話の流れ的にそういうことかなと思ってたらその通りだった。僕たちからそう遠くない人の中にもそういうのがいてもおかしくはないと思ってたから驚くほどのことじゃなかった。もちろん気分は良くないけど、気持ちの上では冷静だった。
玲那の様子も、絵里奈の様子も、何も変わりない。
それでも、田上さんはうなだれて小さくなってた。その姿は、見てるこっちまで辛くなるものだった。
玲那が言う。
「フミ。ありがとう。そうやって私のことを想ってくれるだけでもう十分だよ。弟くんとフミは違う人間だからね。こういうこともあると思う。フミが自分を責める必要なんてない」
テキスト自動読み上げアプリの機械音声だから、どうしても生身の声みたいな情感がこもった感じにはならない。それでも、玲那の表情を見ながらだったらあの子の感情や気持ちも伝わってくる気がする。最初から田上さんを責めるつもりとか全くないのが分かる。
うなだれながら玲那の言葉に何度も頷く田上さんの背中を、波多野さんがそっと撫でていた。
田上さんの弟さんは、ネット上の自分の言動がこうやってお姉さんを悲しませてるって知ったらどう思うだろう…?。申し訳ないと思うのかな。それとも、知ったことじゃないと思うのかな。正直、今の時点での印象だと、後者のような気がして仕方ない。お姉さんが辛い思いをしてるのを気遣うようなタイプなら、家庭の状況に思い悩んでる彼女を放っておいたりしないと思うし。
そうだな。フィクションの中とかだと、普段は反発し合ってる姉弟でも実はっていうのが定番かもしれないけど、実際にはそういうのもそんなに多いことじゃない気がする。たとえ血の繋がった姉弟でもまったく情を感じていないっていうのが決して少なくないっていうのが僕の実感だった。姉弟ではなく兄弟だけど、兄と僕との関係もそんな感じだから。
兄のことは憐れだとは思っても、それは決して同情なんかじゃない。兄を救いたいとか助けたいとか、本音では欠片ほども思ってない。もし救いたいとか助けたいとかいう気持ちがあるとしたら、それは沙奈子のためだ。あの子の実の父親である兄にもしものことがあって沙奈子が悲しむなら、彼女のために兄を救ってもいいと助けてもいいとは思える気がする。実際思ってる。
あくまで、沙奈子のためにね。
だから、それがなかったら、それこそ兄がどこかの公園や道端で誰にも看取られずに見捨てられたまま冷たくなってても『そらみたことか。罰が当たったんだよ』としか思わないんじゃないかな。
そうだ。僕は決して善人じゃない。すべての恨みを忘れて何もかもを許せるほど器も大きくない。
それを思えば、田上さんの弟さんがお姉さんのことを気遣えなくてもそんなに不思議じゃないっていう実感もあるんだ。
哀しいことだけれど……。
そして同時に、だから玲那のことを罵れるんだろうなっていう実感もある。実のお姉さんのことも気遣えないのに、赤の他人の玲那を気遣えるはずもないって。玲那がどんな境遇にいても、どんなに苦しんでても、何も関係ないんだろうな。
けれど、それがまた、弟さん自身の不幸として返ってくるんだと思う。そういうことをしてるから、お姉さんの田上さんにも『どうしようもない』って思われるんだって感じるんだ。
もし、弟さんが匿名に隠れて他人を口汚く罵るようなことをしないタイプだったら……。
もし、お姉さんのことを気遣ってあげられるタイプだったら……。
少なくとも田上さんには『守ってあげたい』って思ってもらえたんじゃないかな。だけど残念ながら今はそうじゃないみたいだ。
星谷さんが田上さんの弟さんを見守ってる、と言うか監視してるのはあくまで田上さんのためであって弟さん本人のためじゃないっていうのは見てるだけでも分かる。
結局、自分の普段の行いがそういう形で返ってくるってことなんだろうな。
ただ、それでも、田上さんがイチコさんや星谷さんや波多野さんや大希くんや千早ちゃんや玲那のことを気遣える人だから、そんな田上さんの弟さんだから、まだこうして気にかけてもらえるっていうのもあるんだろうな。
そういう、細い細い糸を手繰り寄せることができるのかどうかで、救われるか救われないかっていうのも決まるような気もするんだ。




