四百九十一 文編 「必要は発明の母」
金曜日。今日は祭日だからずっと沙奈子と一緒にいることになる。
一緒に朝食を食べて、掃除して、洗濯して、勉強して。
四人で揃って朝食の時、玲那はしきりに話し掛けてきた。星谷さんが用意してくれた自動テキスト読み上げアプリがよっぽど気に入ったんだろうと思った。
「あはは、ゆっくり実況みたいで面白い!」
と、最近、ゲームのプレイを動画としてアップしてる人たちがよく使うテキスト読み上げアプリの声と同じものを選択して楽しんでた。
「でも、もし、口を動かすだけで声を再現できるようになったら、本当にすごいね。普通にしゃべるのとほとんど変わらなくなるってことでしょ?」
絵里奈がちょっと目を潤ませながらそう言った。もしかしたら玲那がしゃべれるようになるかもしれないってことで込み上げてしまったんだろうと思った。
「僕も、素直にそれは期待したいと思った。少し時間はかかってもいいから実現してほしいな」
正直な気持ちが言葉になる。これと同じことがまた玲那もできるようになるかもしれないんだ。
「うん、楽しみだよ!」
嬉しそうな玲那の様子を見て、僕の膝に座ってた沙奈子も嬉しそうに微笑んでた。ホントに優しい子だなあ。
それにしても、『必要は発明の母』とは言うけど、本当だなとつくづく思った。さすがの星谷さんだって玲那のことがなかったらそこまで思い付いてなかったかもしれない。そういう需要がある可能性については気付いてても、こうやって実際に行動に移すことはなかったかもしれないから。
『自動テキスト読み上げアプリについては既に同様のものがありますから、現在のこれは玲那さん用にカスタマイズした程度にすぎません。これからさらに改良を加え、手軽に利用できてかつ汎用性を高めたものを一般にも公開したいと思います』
だって。しかもテキスト読み上げアプリについては無料公開を予定してるって。その分、口の動きを読み取って音声にする方についてはきちんと『商品』として成立させるとも言ってた。そうやって利益を上げないと次に繋がらないってことらしい。そこまでちゃんと考えてるんだなあ。
絵里奈が仕事に行く時も、僕や沙奈子と一緒に、
「いってらっしゃい」
って『声』で送れた。僕も沙奈子も絵里奈も、もちろん玲那自身も嬉しくて何とも締まりのない顔になってしまう。
「うひひひひ」と、玲那はわざと変な笑い声を使ってそれを表現してた。だけどそんな様子すら僕にとっても嬉しい。
「おとーさん」
絵里奈が仕事に行った後、玲那が不意にそう言った。
「なに?」
と僕が応えると、
「なんでもな~い」
だって。嬉しくて意味なくそんなことをしてしまうのも分かる。
「おと~さん」
またそう言うから、やっぱり「なに?」ってちゃんと応じる。すると今度は、
「愛してる」
って。なのに自分で言っておいて顔を真っ赤にしてもじもじしてるその姿が可愛くて、僕も素直に、
「愛してるよ、玲那」
と応えられた。その様子を見てる沙奈子も嬉しそうだった。玲那が嬉しそうにしてるのを見るのが嬉しいんだろうな。
『声』でやり取りできるというのがこんなに楽しいものだっていうのは、こういうことがなかったらここまで実感できてなかったかもしれない。当たり前のことが当たり前にできるっていうのは、それだけで幸せなんだって思える。
それを教えてくれた玲那と、その機会を与えてくれた星谷さんには感謝の気持ちしかない。
実はこの数年後、星谷さんの発案による、口の動きを読み取ってそれを声にするシステムが実用化されて、しかも声を失う以前に撮っていた動画からサンプリングした玲那自身のそれと、新たに玲那の骨格とか口の形とかのデータを詳細に調べたものを基にしてより精度を高めて、玲那は『声』を取り戻すことになるんだけど、それについてはまたいずれ詳しく触れることになると思う。
さらにはそれだけじゃなくて、この時に取った特許が世界中で使われて星谷さんにまたすごい利益をもたらすことになって会社を興すことにもなったりするんだ。それについても、機会があったら触れることになるかもしれない。
本当に、人生って何がどう影響することになるのか分からないなあ。
こうやって僕たちが嬉しくなってるその一方で、田上さんの抱える問題はまったく出口が見えないものになっていってた。
いや、違うかな。それ自体はずっと以前からそうだったんだと思う。その辺りの事情を僕も知ったというだけのことかもしれない。
田上さんのお父さんは不器用なだけっていう気がするからまだしも、お母さんのお父さんに対する悪口は止まるところを知らなかったって。ただそれも、別に酷くなった訳でもないのかもしれない。思春期真っ最中の田上さんがいよいよそれに耐えられなくなってきたってことなのかな。
「はぁ…。何て言うか、気分が上がったり下がったり、自分でも忙しいと思う……」
山仁さんのところに行った時、田上さんはそんなことを言ってた。昨日からイチコさんや波多野さんとずっと一緒にいられて気持ちを切り替えられたと思ってたのに、今日は家に帰ることになるのかと思うとどんどん気分が沈んでいくんだって。
家に帰るのが憂鬱だっていうのは、僕も高校の頃は特にそうだったから分かる気がする。
するとイチコさんが言った。
「私は家に帰りたくないって思ったこともないから分からないなあ。それってどういう気分なの?」
今の田上さんにそれを聞くっていうのが僕には正直言って驚きで、一瞬、ギョッとなってしまった。だけどこの四人の中ではそれは特別なことじゃないらしい。田上さんも別に気にした様子でもなく、
「どういう気分って言われても、イヤ~な気分としか言いようがないかなあ」
テーブルに手を着いてそこに顎を乗せて、完全に不貞腐れた感じでそう応えた。もちろんそれはイチコさんに対してのじゃなく、自分の家のことについてだった。
「私はフミの言ってるの、ものすごく分かるよ」
波多野さんが腕を組んで感慨深そうにうんうんと頷く。そこにさらに玲那も加わった。
「分かるわ~、めっちゃ分かるわ~」
って、波多野さんと同じように腕を組んで頷きながら。
すると田上さんは苦笑いしながら応える。
「そうなのよ。私も、カナや玲那さんの家のことを思ったらまだマシだって分かってるんだけど、それでも辛いものは辛いの」
と、今度は、普段はこの場ではあまり発言しない絵里奈も加わる。
「私の場合はどちらかと言えばフミさんの事情に近かったから、カナさんや玲那と比べるとまだマシなんだって思わなくちゃいけないって感じてしまう気持ちは理解できる気がするかな」
そういう感じで、特に問題解決に直接繋がりそうな話はないままに、でも話をしたことで気持ち切り替わったのか、
「ありがとう。みんなに聞いてもらったらちょっと楽になったし、今日は帰るよ」
と言って、自分の家に帰ることになったのだった。




