四百八十五 文編 「家庭の問題」
田上さんの家庭は、公務員のお父さんに専業主婦のお母さん、中学生の弟さんの四人家族だそうだった。
しかも、お父さんは市役所で役職についてて、しかも企業に対して許認可を与える部署の偉い人だそうだから、収入自体も決して少なくはないんだって。
だけどお母さんはそれでも物足りないと不満らしくて文句ばかり言ってるって話だった。
『お母さん、お父さんのことをATMって呼んでるんだよ?。しかもお金さえ入ってくればお父さんなんて要らないって言ってるの。
私、じゃあどうして結婚なんかしたの?って聞いたことがあるんだけど、その時、お母さんなんて言ったと思う?。『その時は楽できると思ったから』って言ったんだよ?。
楽するために結婚って、意味分からない。おじさんもイチコもすごい努力してると思う。楽なんかしてないよ。家族みんなが努力して家庭ってのは成り立つんだって見てて思った。なのにお母さんは、結婚したら楽できると思ってたって言うんだよ?。何にも分かってないって娘の私から見ても思うよ』
と、田上さんが言ってたことがあった。その時からかなりいろいろ抱えてるんだなって感じてた。それでも、波多野さんが辛い思いをしてるから自分のことは二の次にして支えようとしてたみたいだけど、やっぱり辛かったんだろうなって、館雀さんのことで怒ってる彼女を見て思ってしまった。
世間から見たら、お父さんが公務員で、お母さんが専業主婦で、それなりに立派な家に住んでってなれば幸せな家庭に思えるのかもしれなくても、そこに生まれて育ってきた田上さんはぜんぜん幸せじゃなかったそうだった。お母さんのお父さんに対する不平不満を毎日のように聞かされて、お父さんが稼いだお金で贅沢をしてそれでも足りないと文句を言って、田上さんにもいい服を着せようとして自分が選んだものを押し付けようとしてたって。
小さい頃はそういうものだと思ってた田上さんも、大きくなるごとにお母さんの言ってることがおかしいと感じるようになって、どんどん苦痛になっていったとも言ってた。
外からは幸せそうに見えても、実際に幸せだとは限らないっていうのをすごく感じた。僕の家もたぶん、そうだったから。
両親は兄に対してはすごく熱心で子供のことを大切にしてるように他人には見えてたみたいだった。
『達くんのお父さんとお母さんは立派な人だね』
って、近所の人に話しかけられたこともある。詳しい事情を知らない他人からはそう見えるんだって子供心にものすごく冷めた気持ちになったことがあったのを覚えてる。
あれが『幸せ』だって言うのなら、僕は幸せなんかいらないとまで思ってた気がする。田上さんのところもそうなんだろうな。
上辺だけを見て『幸せそう』って言われるのがどれほど辛いか、知らない人も多そうだなって思う。
ましてや、『それだけ恵まれてて文句言うな』とか言われるのってたまらないよ。まるで、それを幸せだと感じられない自分が悪いって言われてるみたいで。だけど幸せだって感じられない、それどころか苦しくて仕方ないんだからどうしようもないじゃないか。
そういう人に『他人の気持ちを分かれ』とか言われたらそれこそ気分が悪いって気しかしない。『他人の気持ちを分かれと言ってるお前が何も分かってないじゃないか』としか思えない。
だから僕は、他人を信じられなくなっていったんだって気もする。他人の気持ちが分かるとか、気遣いができるとか、優しいとか、そんなの口先ばかりで実際には自分の都合を押し付けてくる人間ばかりだったから。
他人の気持ちなんて完全には分からない。ただこうだろうなって想像してるだけだ。その想像が正しいかどうかさえ確かめようとしないで『気持ちは分かる』なんて、ただの嘘なんじゃないかな。
山仁さんは、『気持ちは分かる』っていう言い方はほとんどしない人だった。逆に、『あなたの気持ちは私には分かりません』という言い方をする方が多いかもしれない。でもだからこそ信じられる。本当は分かっていないものを分かってるとは言わないから。『あなたの気持ちは分からないから、私が行うことはあくまで私の気持ちとして行っているものです』ということで行動してる。だから『自分がここまでやってあげてるのに』みたいな言い方もしないんだ。あくまで自分の気持ちとしてやってるだけだから。
恩を売るつもりもないし、見返りも期待してない。その上で人として思いやりを感じる振る舞いができる人なんだ。僕もそれを目指したい。
でも不思議と沙奈子や絵里奈や玲那のためなら自然とそんな風にできてる気がする。そんな風にしたいと自然に思えるんだ。山仁さんもそうなんだろうなって感じる。イチコさんや大希くんのためなら、星谷さんや波多野さんや田上さんや千早ちゃんを受け入れることができるんだろうな。
しかもそれ自体が、山仁さん自身のためにだっていうのも感じるんだ。
自分のためにやってることが、結果として誰かのためになってる。
それが一番、無理なく誰かのために何かをするっていうことになるんだろうな。僕もそれをすごく実感してる。
千早ちゃんも星谷さんも波多野さんも、そんな山仁さんを受け入れることができたから穏やかな気持ちになれてるんだろうな。
たぶん、田上さんも。
今はまだ揺れ動いてる感じでも、基本的には大丈夫なんじゃないかなって気がしてる。油断はできなくても後は時間さえかけられれば。
本当は、田上さんの家庭そのものが良くなっていけばそれが一番なんだろうけど、世の中ってそんな都合よくいかないのは確かなんだ。誰かの活躍で万事解決ってことは逆に滅多に起こらない。滅多に起こらないからこそフィクションの中ではもてはやされる。
けれど、それを期待していたらいつまで経っても解決しない問題にイライラし続けるだけなんだろうな。結局、自分がその問題とどう折り合いをつけるかっていうのを見付けていくしかないんだ。沙奈子の問題にしたって、兄が心を入れ替えていい父親になってくれるっていうのが理想的な結末なんだろう。でもそんなことが起こるとは到底思えない。あの兄を変えるなんてことができるとは思えないし、そもそも消息さえつかめないんだから。
だったらもう、いないものとして考える方がすっと現実的な対応だと思う。たぶん、兄は、帰ってくるつもりなんてさらさらないんだ。帰ってきたらみんなに責められるから。帰りたくないんだろうな。
兄を変えることもできない僕が、他人の家庭が変わることを期待するのもどうかしてる。だったら、家庭の問題を抱えた田上さん自身を、家庭の問題でつい愚痴をこぼしたり感情的になってしまう田上さんを受け止めることの方がよっぽど現実的だと思うんだ。




