四百八十四 文編 「田上さんの変化」
田上さんが館雀さんのことについてある程度の結論を得られたんだとしたら何よりだと思う。すっきり解決とはいかなかったみたいだけど、身の回りで起こる問題って、えてしてこういうもんなんだろうなっていうのも感じるんだ。綺麗に解決することの方が実は珍しくて、ほとんどが何となくうやむやになる感じでいつの間にか終わってるみたいな。
お互いにそれぞれ望んでる形が全く違ってたら、それが完全に納得するものになることなんてまずないんだなっていうのも改めて思った。完璧に自分の思い通りになることばかりを期待してたら、その通りにならないことの方が多いからいつまで経っても満たされないんだろうな。
館雀さんはこれからどうするつもりなんだろう?。あの調子でいくといつかとんでもない不幸を招く気がする。だけど僕たちにはそれを止める手立てはないって気もする。僕たちが何を言っても、彼女はそれを聞き入れないだろうから……。
そうなんだ。誰かが救いの手を差し伸べても、本人がそれを掴まないとどうにもならないんだ。押し付けようとすればするほど彼女はきっと意固地になって心を閉ざすと思う。鷲崎さんにアプローチをかけられてた頃の僕みたいに。
本当、人間関係って難しいな。上手く噛み合わないとお互いに空回りするだけなんだって実感する。
ただ、今では人間関係が難しくても別に構わないという気持ちにもなってる。こうやって安心できる関係が作れてるから、それ以上は必要ないとも思えるんだ。社交辞令で対処してれば十分って言うか。
沙奈子と絵里奈と玲那がいて、その上に山仁さんやイチコさんや大希くんや千早ちゃんや星谷さんや波多野さんや田上さんがいてくれるなら。しかも塚崎さんや学校の先生方だってすごくいい人たちなんだ。これ以上望んだら罰が当たりそうって思えるくらいに恵まれてる。
館雀さんのことは、そういう恵まれた環境の中のちょっとしたイレギュラーって思えばいいんじゃないかな。
会合を終えてアパートに帰った僕と沙奈子は、家族四人の団欒でホッとしてた。この感じを守っていくために僕たちは努力してるんだっていうのも実感する。いろいろあってもこうしていられればまた頑張れる。嫌味な上司や冷たい同僚しかいない会社でも仕事を続けられる。あそこはこの生活を守るための糧を得るだけの場所だと割り切れるから。
でも、僕にとっては嫌味なだけの上司でも、あの人にはあの人なりの人生があって家族がいてそれを守るために仕事を続けてるんだろうなって、今なら素直に思える。僕にとっては冷たい同僚だって、同僚同士では仲が良さそうなのもいるから、単に僕がそういう風にできないだけだっていうのも分かってるんだ。同僚たちにも同僚たちの人生があって、その中で頑張ってると思うんだ。僕がそういうのを知ろうとしないだけなんだ。
だから、自分を、嫌味な上司にいびられて冷たい同僚に冷めた視線を向けられてる被害者だって考えるのはよそうと思ってる。僕が馴染めないというだけでそれを『悪』と決め付けるのは違うと思ってる。今ではそう思えるようになった。そのおかげで耐えられてるというのもある。職場で孤立してるのは、僕がそれを選択してるだけなんだって。
思えば、それだって館雀さんのしてることとそんなに違わないのかもしれない。僕の方から積極的に噛み付いていかないだけで、上司や同僚と良好な関係を築こうとしてないのは僕の方なんだ。上司や同僚たちから見れば、僕の方こそ嫌な奴に見えてるのかもしれない。職場に馴染もうとしない身勝手な人間に。
どっちが良いとか悪いとかじゃない。ただの立場の違いなんだ。立場が違うというだけで相手を悪人扱いするのは違うんじゃないかなって思える。そんな風に思うとあまり腹も立たなくなる。イライラもせずに済む。イライラしなければストレスも感じない。ストレスも感じなければちょっとしたことでも幸せを感じることができる。それが幸せになるコツなんだろうな。
自分にとって嫌なことをしてくる人を気にしないようにするとか、その人の立場や事情を認めようとするとか、お人好しで綺麗事だと感じる人も多いと思う。そんなことできるはずないとか嫌な奴を許すなんてそいつらを甘やかすだけだとか感じる人も多いと思う。だけど僕はもう疲れたんだよ。そうやって他人を恨んだり妬んだり嫌ったりし続けることに。どうしてしたくもないことを続けなきゃいけないのかな?。僕にとってはどっちの方が楽かっていうだけのことなんだ。
僕一人が僕にとって都合の悪い人を責め続けたって何も変わらないしその人が考えを改める訳じゃない。それどころか余計に意固地になるだけかもしれない。そんなことに時間や労力や気力を費やすことに価値を見出せないんだ。そんなことをしてる暇があるなら、沙奈子や絵里奈や玲那と顔を合わせてた方がずっといい。その方が何万倍も楽しい。
わざわざ見ようとしなくたって嫌なこと辛いことはいくらでもあるし無くならない。だったら、そういうのは有って当たり前なんだから泣き言ばかり並べたって何の解決にもならないって思えるんだ。
本当は、館雀さんにもそれを理解してもらえたらいいんだろうな。でも、僕たちは万能じゃない。僕たちは神様でもなければ聖人でもない。館雀さんに分かるように説法を説くこともできないんだ。イチコさんがあれだけ言って説得できなかった彼女に届く言葉なんて、僕にはまったく思い付かない。
田上さんも、少しそれが分かってきたのかなって気がする。館雀さん相手に怒り続けても自分には何もできないっていうのを悟ってきたのかなって。延々と不平不満を垂れ流し続けても何も解決しないことに気付かずにひたすらそれを続ける人もいる。館雀さんはそういうタイプなのかもしれない。館雀さんに対してイライラして罵ることは、彼女と同じことをしてるだけなんだろうな。
それを理解できても、すぐには納得できないのも人間ってものだと思う。きっと田上さんも行きつ戻りつしながらいつか気にならなくなるのかもしれない。そうなれればいいなって、余計なお世話かもしれないけど思ってしまう。
イチコさんのために館雀さんに怒れる田上さんも、とてもいい子なんだ。そんな田上さんにもちゃんと幸せになってほしい。本当の家族との間に解決できない問題を抱えてても、大きな不幸の中にあっても、小さな幸せは感じ取れるはずだから。そのために僕もできることは協力したい。
こんな風に自分が思えるようになったっていうのがすごいな。一昨年までの僕なら有り得ない。
そんなことを、またビデオ通話に参加してきた鷲崎さんとも話をしながら僕は思ってたんだ。




