四百七十五 一弧編 「感情との付き合い方」
木曜日。今日は朝から雨だった。雨は嫌いじゃないけど、なんだか気分は憂鬱だった。たぶん、館雀さんのことがあるからだと思った。
すると案の定、彼女はまた山仁さんの家に来てた。
本当に、何が目的なんだろう?。ここまで来るとただの嫌がらせにしか見えなくなってくる。責任とか謝罪とか土下座とかも本当はどうでもよくて、単に困らせたいだけなんじゃないかな。
そうとしか思えない。
だけど、イチコさんも何も変わらなかった。
「私は館雀さんとこうしてお話しできて楽しいよ」
ますます余裕を感じる口ぶりで、館雀さんの口撃を受け流す。なにしろ館雀さんの言ってる内容は、『謝罪しろ』『責任を取れ』『土下座しろ』『お前らは常識がない』『お前らは頭が悪い』をただ連呼してるだけだったから。
そのせいか、星谷さんは能面みたいな無表情になってるし、波多野さんも何だか飽きてきたみたいな退屈そうな顔になってた。田上さんだけはまだすごく怒った顔をしてるけど。
そして結局、一通り喚き散らした後で館雀さんは出て行った。
星谷さんは探偵と連絡を取り合い、波多野さんは呆れたみたいに肩をすくめる。
僕も、ここまで来ると何となく慣れてきた気がした。沙奈子を連れてアパートに帰ると、絵里奈や玲那とも話をする。二人とも山仁さんのところでは敢えて黙ってたから。
『なんかもう、すっかり底が見えちゃった感じだよね』
「そうね。言ってることが同じだし」
そう言う二人に、僕もしみじみ頷いていた。
「何て言うか、イチコさんが受け流すから話が広がらない感じかな。あれでイチコさんが感情的に言い返して来たらきっともっといろいろ言うことも増えるのかもしれないけど、攻めあぐねてるって気がする」
『あ~、まさにそれかも』
「ですね。罵ろうにもペースが掴めないみたいな印象があります」
「かといってあそこまで罵ってしまうと今さら後にも引けなくてって感じなのかな」
『ちょっと可哀想にも見えてきたよ』
玲那の言う通りだと思った。引くに引けなくなってとにかく喚き散らすことしかできない館雀さんの姿が、憐れにも思えてしまう。
もしあそこで暴力でも振るおうものならそれこそ星谷さんが容赦しないと思う。『会話は全て録音しています』とも言ってたし。だから館雀さんに有利なことは何一つないんだ。仲間とか連れてくるっていう様子もないところを見ると、彼女にはそういう人もいないんだろうな。そんな中で一人で相手の家にまで乗り込んで喚き散らすとか、山仁さんの家だから無事で済んでるだけで、性質の悪い人を相手に同じことをしたら今頃どんな目に遭わされてるかそれこそ分からない。
そうだ。そんな風に考えると館雀さんはやっぱり、自分で不幸の中に飛び込もうとしてるんじゃないかな。ああやって自分で不幸を作っていくんだっていうのを目の当たりにした気がする。そして嫌な目に遭ったら、『自分は不幸だ!』って言いそうな……。
世の中には、館雀さんみたいな形で自分から不幸になりに行ってる人が多いのかもしれない。自分がそういうことをしてるって気付いて止められたらずいぶん楽になりそうだなとさえ、僕は思ってしまってた。
金曜日もやっぱり館雀さんは来てたらしい。でも、僕が行った時にはもう既に帰った後だった。山仁さんもイチコさんも星谷さんも波多野さんも割と平然としてたけど、田上さんだけはぐったりした様子だった。
そう言えば、田上さん、最近ずっと来てるなと思ったら、自分には合わないところだと感じて塾を辞めてしまったらしい。成績がぜんぜん上がらなかったそうだ。だから星谷さんに勉強を教えてもらうことにしたんだって。田上さんとしてはそこまで迷惑をかけたくなかったから塾に行くようにしたのに成果が出ないんじゃそれこそ意味がないからってことで。
さすがに高校生ともなるとそういう点でもいろいろと考えないといけなくなるんだな。僕自身はその頃、家を出て行くことしか考えてなかった気がする。しかも両親には塾にも行かせてもらえなかったから自分で勉強して。でもまったく楽しくない時間だったのは覚えてる。その上、やった内容はほとんど忘れてるし。
まあそれはさておいて、イチコさんが言ってた。
「館雀さんが何を怒ってるのか私にはよく分からないけど、怒りたいっていう気持ちも無視しちゃいけないのかなって思うんだ。
私がこんな風にしてられるのは、お父さんが私の気持ちも感情もちゃんと認めてくれてたからだと思う。
もちろん何でもかんでも許されるわけじゃなかったけど、そういう感情が湧いてしまうこと自体は認めてくれてたんだ。その上でその感情とどう付き合えばいいのかっていうのを教えてもらったんだよ。
館雀さんはそういうのを許してもらえなかったのかなって思った。だから、その分を他人にぶつけてしまうのかなって。
感情に振り回されるのは大変かも知れないけど、感情をなかったことにするのはもっと大変なんだろうな」
そんな風に話すイチコさんを、山仁さんは黙って見守ってた。その顔はどこか嬉しそうだった。自分が伝えたかったことがちゃんと伝わってるのを感じたからかもしれない。
そうだ。親として子供に伝えたいことは、一方的に押し付けるだけじゃ伝わらないんだって気がする。だから伝わってるかどうかをしっかりと確かめないといけないんじゃないかな。そのためには子供のことをよく見てないといけないんじゃないかな。
ただ押し付けただけで教えた気になって安心してちゃ、大事なことが伝わってないのにそれに気付かないっていうのもありそうだし。
館雀さんのご両親だってあんなことをする人に育てたかったわけじゃないと思うんだ。だけど、実際にはあんな感じになってしまってる。子供のことをきちんと見てたらそれも分かりそうなのに、見てないんだろうか。
まさか、あんなことする人にしたかったんだとしたら、それこそとんでもないって気もする。いつかすごく性質の悪い人のところにあの調子で押しかけて酷い目に遭ってってなったりしたら、それって親がそうなるように仕向けたってことになりそうで。
自分の子供をわざわざ不幸になるように仕向ける親なんて、意味が分からない。
それで言うと、僕の両親はそれこそ兄を不幸になるように仕向けてたようにさえ見えてしまう。その結果がこれ以上ないくらいにしっかりと出てしまってる。僕はそれが怖い。
だけど山仁さんは、イチコさんを不幸にしたくないんだっていうのがすごく伝わってくる。だから自分から不幸を作るような人にはしないでおこうとしてるんだと感じる。
不器用かもしれない。要領よく世間を渡っていけるわけじゃないかもしれない。でも不幸をばらまきながら要領よく生きたって、それで幸せになれる気はしないんだ。




