四百五十六 一弧編 「悼む心」
「次の日曜日は、私と千早とカナとフミとで、例の旅館に行くことになりました。そのため、山下さんのお宅に伺うのはお休みさせていただきます」
水曜日。いつものように山仁さんの家に行った時、星谷さんがそんな風に切り出した。
「イチコのご家族には、お母さんのお墓参りに行っていただくことになりましたので、お邪魔をしないためです」
…え……?。
あ、そうか…。そうなんだ。
と僕が思ってると、山仁さんが静かに話し始めた。
「実はその日、妻の命日でして……」
驚いた。イチコさんが最近になってお母さんの話を振ってきたりしてたからもしかして命日が近かったりするのかなとは思ってたけど、改めて言われるとね。
「本当は、田上さんの誕生日も近いということで、楽しい気分に水を差したくありませんでしたし黙っておくはずだったんですが、大希が口を滑らせてしまって、急遽、そういうことになりました。皆さんにはご迷惑をおかけしますが、ありがたくご厚意に甘えさせていただきます」
そう言って頭を下げた山仁さんに、田上さんが両手を振りながら言った。
「そんなの、私の誕生日の方こそどうでもいいですよ。イチコとヒロ坊のお母さんの大切な日なんですから…!」
山仁さんの気持ちも、田上さんの気持ちも、何となく分かる気がした。山仁さんはいつでも奥さんのことを心に留めていて、いつでも悼んでいて、敢えて日にちに拘る必要はないって感じだったんだって。一方で田上さんにしても、友達のイチコさんのお母さんの大切な日を優先してあげて欲しいって感じてるんだろうな。
ただ、山仁さんの考え方として、生きている人を優先したいというのもあるそうだった。でもそれは、常に奥さんのことを想ってるからこその余裕なんだとも僕は感じた。特定の日にだけ思い出して儀式をしようとするから、その日でないとダメって思ってしまうのかもしれないって。
もちろん、大事な日に拘りたいっていう人もいて当然だと思う。そういう人はそれでいいんだと思う。だけど山仁さんのように考える人がいたっていいと思うんだ。生きている人を優先して、自分は静かに亡くなった人のことを想い悼むっていう形もあっていいんじゃないかな。
イチコさんが言う。
「私は、あんまりピンとこないんだ。だって今でもお母さんのことはすごく身近に感じてるから。もちろん、亡くなったことは悲しいし辛いけど、それだけじゃないって言うかさ。私の中に、確かにお母さんがいるんだよ。私が話し掛けたら応えてくれるんだ。いつでもね」
『私の中に、お母さんがいる』
それって、僕も香保理さんに対して感じてたこと……。
その言葉に僕は改めて思ってしまった。今の僕の考え方は、山仁さんの影響が大きいんだって。山仁さんと出会ったことでそう考えられるようになったんだって。
その一方で、僕の両親のことをどう感じてるかってことになったら、自分の中にいるとか、話し掛けたら応えてくれるとか、以前はそんなのまったくなかった。今だからこそほんの少し感謝してもいいかなと思えるようになったけど、ちょっと前までは、心の中にいるどころか、完全にいなくなってほしいとさえ思ってた。記憶すら要らないと思ってた。思い出すのさえ嫌だった。だから余計に思ってしまう。イチコさんの心にそんな風に残れるお母さんはどれほど素晴らしい人だったのかって。
他人にとってはどうか分からなくても、少なくともイチコさんにとってはそれほどまで想ってもらえるお母さんだったんだって。
「まあでも今年はちょうど学校も休みだし、みんながそうしたらいいって言ってくれるんなら、その日に会いに行ってもいいかなって思う」
そのイチコさんの言葉で、今日の会合は終わった。
僕が沙奈子を連れて家に帰ると、ビデオ通話を繋いだ途端、絵里奈が言ってきた。
「山仁さんの奥さんが亡くなった日がそんなに近いなんて、正直、驚きでした……」
伏し目がちな絵里奈の様子に、僕もすぐにピンと来てしまった。
「香保理さんのこと……?。それに、英田さんのお子さんのこともか……」
僕の問い掛けに、絵里奈は頷いた。彼女の驚きも分かる気がした。香保理さんの命日が9月26日。田上さんの誕生日とも重なってしまった上にこれか。しかも英田さんのお子さんが亡くなったのは10月2日だったはず。毎日が誰かの誕生日であると同時に誰かの命日でもあるって実感できるようになっても、ここまでとなるとね。
絵里奈は続けた。
「山仁さんのおっしゃった、『生きてる人を優先したい』っていうのは私たちも分かります。イチコさんのおっしゃった、『今でもお母さんのことはすごく身近に感じてる』っていうのも分かる気がします。私と玲那も、香保理のことは今でもすごく身近に感じるんです。『話し掛けたら応えてくれる』っていうのも分かります……」
そういうのに反発を感じる人もいると思う。『亡くなった人に失礼だろ』って思う人もいると思う。でも僕は、山仁さんの奥さんのことでも思ったけど、大切な人だからこそ自分たちだけでゆっくりと悼みたいっていうのもあっていいんじゃないかって思うんだ。
山仁さんのところでは、親子四人で水入らずで。絵里奈と玲那と香保理さんのところでも、三人だけで水入らずで……。
だから昨日、絵里奈と玲那だけでお墓参りに行ってもらったんだ。いつかその時が来たら僕もご挨拶に伺いたいとは思うけど、今はまだ三人だけでゆっくりとね。
ただこうして、イチコさんのお母さんのその日が分かったのなら、香保理さんの時と同じように僕も心の中で悼みたいと思った。イチコさんのお母さんがイチコさんや大希くんを残してくれたから、この集まりがあって、千早ちゃんと行き違いが生まれてしまった沙奈子が助けてもらえたんだからね。
香保理さんも、イチコさんと大希くんのお母さんも、顔も合わしたことのない人なのに、言葉すら交わしたことがない人なのに、何だかすごく身近に感じられる気がする。それはたぶん、今の絵里奈や玲那を作ったのが香保理さんで、イチコさんと大希くんに至ってはまさに二人を生み出した人だっていうのがすごく伝わってくるからなんじゃないかな。すべてが繋がってるんだなって実感がある。
だから余計に、僕の両親は何をしてたんだろうとも思ってしまうけどね。僕の中にあるのは、ほとんどが二人に対する嫌悪感だった。最近になってようやく、ほんの僅かだけ、感謝の気持ちの欠片が湧き始めてるっていうのはあるけど、でもそんなのはまだぜんぜん小さい。圧倒的な割合の両親に対する負の感情だけで僕は出来上がってる。
自分の子供をこんな風に作り上げて、あの人たちは本当に何がしたかったんだろうな……。




