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僕に突然扶養家族ができた訳  作者: 太凡洋人
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四百四十二 一弧編 「結末としての死」

イチコさんによるご両親の自慢話は、時間にしたらせいぜい15分程度だったと思う。だけど僕にとってはすごく重要な15分だったと思った。いろんなことが分かった気がした。


もちろん本当に何もかも分かった訳じゃないのも理解してる。ただいろんなことに合点がいった時間だったのも確かなんだ。


山仁やまひとさんの家が普通じゃないのは、普通ではいられなかったからなんだろうな。どうすれば幸せを掴めるかっていうのを、観念的にじゃなく具体的で合理的に考えようとした結果なんだ。


他人を攻撃しない。他人を攻撃すると反撃されて嫌な思いをすることになるし、それは幸せじゃないから。


他人の攻撃にいちいち反応しない。反応を楽しむことを目的にやってる人を喜ばせて調子に乗らせてますます攻撃されることになるから。


自分にとって大切なものを大切にして、でもそれを他人に押し付けない。他人に押し付けようとすると反発を受けて攻撃されるから。


この世には理不尽なことや不条理なことは普通にあるしそれがなくなることはない。当たり前にあることをいくら嘆いてもそれが報われることは決してない。それを望むのは永久に幸せになれないことを選ぶのと同じ。何故ならそれは、永遠に死なない命を望むようなものだから。


『人は死ぬ』。人生の最終目的地は、『死』そのもの。それを変えることは決してできない。その死を受け入れることが、死ぬまでに自分が何を成し、どう生きるかを考えることが幸せを作る。


これらが、この集まりに参加したことで得た僕の『答え』。一種の死生観みたいなものとも言えるのかな。


人は死ぬことが決まってる。これを覆すことはできないわけで、人間、いや、すべての生き物は、生まれたその瞬間から結末が決められた大きな不幸の中にいるんだ。死を単なる不幸だと思ったら、もう何をやったって無駄、絶対に最後は不幸になると分かってる物語の中でいくら努力したって結局はバッドエンド、デッドエンドが決まってるっていうことになってしまう気がする。


でも、最後に死ぬのは分かってても、その間にたくさんの小さくても確かな幸せを積み重ねていったら、満たされた気持ちでその最後を迎えることもできるんじゃないかな。死が結末なら、その結末の段階でたくさんの幸せな記憶を持ってそれにひたっていられたら、もしかしたらそれは幸せな結末と言えるんじゃないかな。


イチコさんのお母さんはどうだったんだろう?。


まだまだ家族と一緒にいたかった時に病気で亡くなるなんて、間違いなく不幸なことだったと思う。だけど山仁さんやイチコさんや大希くんに大切に想われていたことは幸せだったんじゃないかな。その幸せがある分だけ、不幸も緩和されてるんじゃないかな。


それに比べて、僕の両親はどうだったんだろう?。


僕も兄も、両親の死を悲しんでもいなかったし、むしろいなくなって清々したとまで思ってた。自分の子供にそんな風に思われて幸せだったと言えるんだろうか?。僕にはまったくそうは思えない。


玲那の両親はどうだろう?。


玲那も両親が亡くなったこと自体を悲しいと思ったことはないと言ってた。それだけじゃない。玲那の両親の場合は、お父さんがお母さんの死を、お母さんがお父さんの死を願ってたらしい。老朽化して危険なのが分かってたベランダを、事故が起こることを期待してそのままにしておいて実際にその事故が起こってお母さんは亡くなった。その一方で、体に異変が生じてるのを気付いてたのにそれを教えることなく放置したことで手遅れになってお父さんも亡くなった。


お互いに直接は手を下してないけど、ほとんど単なる偶然の不運がもたらした結果かもしれないけど、双方が望んだ結果になったことは事実なわけで、こんなことをお互いに望んでた人間が一緒に暮らしてたことが幸せとは僕には到底思えないし、少なくとも僕にとっては不幸以外の何ものでもない。そんな状態で死を迎えて、それで安らかでいられるんだろうか?。


それで幸せな最期だったと思うことは、僕にはどうしてもできそうにない。


僕や玲那の両親に比べれば、イチコさんのお母さんはよっぽどマシだったんじゃないかな。こんな早い人生の終焉なんて不幸なのは間違いなくても、僕や玲那の両親に比べれば……。


そんな風に思えれば、残されたイチコさんとしてもいくらか苦しみが和らぐ気もする。だからこんな風に穏やかでいられる。お母さんの人生にたくさんの小さな幸せがあったから、それを思い出すイチコさんの悲しみも和らげてくれる。


そういうことなのかなって、僕は感じてるんだ。


だから僕は、いつか来る結末に備えて、小さな幸せをたくさん積み重ねていきたいんだ。そのためには些細なことで他人と揉めたりしてイライラしていたくない。そんなことで煩わされて小さな幸せを失いたくない。他人を攻撃してイライラをばらまいて、せっかく手に入れられるはずだった小さな幸せを捨てたくないんだ。


『ムカつく相手は殴りたい』


『許せない相手に復讐したい』


僕は、小さな幸せを確実に手に入れるために、そういう考えは捨てる。


沙奈子や絵里奈や玲那にもしものことがあった時にはさすがに無理でも、そうじゃない間はそんな考え方はしないようにする。しそうになってもいつまでもしがみつかない。


できない人にはできないことかもしれない。だけど僕にはそれができる。できるからそうする。


この集まりに、山仁さんと大希くんと僕しか男性がいないのは、『ムカつく相手は殴りたい』っていう考えを否定することが男性には難しいからかな。元々の気性として男性には攻撃性が備わってるから、それを否定することがより難しいってことなのかも。


山仁さんは必要があってそれを否定することになった。大希くんはそもそも『ムカつく相手は殴りたい』っていう考えに固執する必要がない。僕は暴力的なことが苦手だからそれを否定することに抵抗がない。


そう考えれば男性が近寄ってこない理由も分かる気がする。


でも僕たちのこれは、非暴力とか平和主義とかそういう理念とも違う気がする。そんな高尚なものじゃなくて、もっと俗っぽくて合理的で実利的なものだって感じる。単純に、『確実に幸せを手に入れたい』からなんだ。ムカつく相手を殴って手に入るものが幸せだとは思えないからなんだ。一時的な満足感とか高揚感とか爽快感とかのために別のトラブルの種を蒔きたくないっていうだけなんだと思う。


ムカつく相手を殴って得られる一時的な満足感とか高揚感とか爽快感とかを幸せだと思う人には理解できないのかもしれないけど、誰かを殴れば、殴られた相手は当然、それに対してムカつくだろうし、それはつまり、『ムカつく相手は殴りたい』っていうのを相手に与えることになるんじゃないかな。で結局、堂々巡りになる。


僕はそうやって自分から厄介事を作りたくないだけなんだ。



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