四百三十九 「甘えられる強さ」
「結人のお母さんは、弱い人でした……。自分にとって嫌な状況になるとそれを解決しようとするんじゃなくてとにかく逃げだして、なかったことにしようとする人でした。
それ自体は仕方ないことだと思います。彼女にはそれを解決する力がなかったんですから。ただ、努力する前から諦めて逃げてしまうんでしょうね。だから誰も手を差し伸べる暇さえなかった感じかもしれません。手を差し伸べようとしたらもうそこにはいない感じで……。
結人と一緒に私の部屋にいる時も、私が何かを言おうとすれば『うるさい!』って言って耳を塞いで……。
たぶん、普通の人ならそこで『甘やかしちゃダメ』って言うんでしょう。だけど彼女の姿を傍で見てた私には、それは言えませんでした。
でも私は何とかしてあげたかったんです。顔見知りに毛が生えた程度の、友達と言っていいのかどうかよく分からないような友達だったけど、知らない相手じゃなかったから……。
だけど結局、私にもどうしていいのか分からなかった……。彼女のためって思ってた言葉はどれもこれもただの小言で、押し付けでしかなかった。だから彼女には届かなかったんだと思います。だから彼女は私のところからも逃げ出してしまった……。
先輩…!。私はあの時、彼女にどう言ってあげればよかったんでしょう?。どうすれば彼女に届いたんでしょう?。なんて言ってあげれば彼女を救えたんでしょう……?。
どんな風に言ってあげれば彼女も玲那さんみたいになれたんでしょう……?」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔のまま、鷲崎さんは僕にそう聞いてきた。僕はそんな彼女を見詰め返した。
「…結人くんのお母さんを知らない僕にそれは答えられないと思う…」
「先輩……」
鷲崎さんが縋るように声を絞り出す。だから僕は続けた。
「ただ、鷲崎さんに何か責任があったかどうかっていう話だったら、ないと思うんだ。親でも家族でもない人が、保護しなきゃいけない訳でもない相手に責任を負うなんて元々無理って言うか。
玲那の場合は、玲那自身が僕を必要としてくれてたからまだ僕の言葉に耳を傾けてくれてたんじゃないかな。だけど結人くんのお母さんが必要としてたのは鷲崎さんじゃなかったっていうことのような気がする……。
これから言うことは、僕がその場にいなかった以上、結人くんのお母さんのことについての部分は全て単なる想像でしかないっていう前提で聞いてほしいんだけど、結人くんのお母さんにとっては結人くんを鷲崎さんのところに預けていったっていうことだけでも精一杯の甘えだったのかも。
結人くんのお母さんは、甘えてるって言うより、本当は甘えたいのに実際に相手に甘えるのが怖いっていう人なのかなって気がした。甘えようとしてそれを拒まれるのが怖くて、先回りして逃げ出してしまう感じと言うか。
人間って弱い生き物なんだって僕は思うんだ。だから甘える時は徹底的に甘えて心が満たされないと不安で心のバランスが取れなくなってしまうのかなって、僕は沙奈子や絵里奈や玲那と知り合って学んだんだ。
玲那が今、こうしてられるのは、ちゃんと僕や絵里奈や沙奈子に甘えてくれてるからだと思う。辛くて耐えられそうにない時はしっかり甘えて、それをリセットできるからまた頑張れるからなんだって思うんだ。でも、あの事件を起こしてしまった時には、それができてなかった。僕たちに遠慮して自分だけでなんとかしようと思ってしまって、だけど実際にはあの時の玲那にはそれをどうにかできる力はまだなかった。それでパニックになってしまったんだって今は思ってる。
あの時、もっとしっかり甘えられてたら…、ううん、僕が玲那に『甘えても大丈夫』って思わせてあげられてたら、あんなことにはならなかったかもしれない……。
でもね、それは僕がその時点でもう、玲那のことを家族だと思ってたから責任も感じるんだ。それこそほとんど顔見知りと変わらない程度の存在だったら、そんな風には感じられないと思う。家族でもない人にそこまでできるだけの力は僕にはないから。
鷲崎さん。鷲崎さんは魔法でどんな問題でも解決できるスーパーヒロインなのかな?。スーパーコンピューター以上の頭脳でもってどんな問題の答えでも見付けられる人なのかな?。もしそうじゃないんなら、鷲崎さんに縋りついて助けを求めてるわけでもない人を助けられなくても当然だと僕は思うんだ。結人くんのお母さんを救える力を持ってるのは鷲崎さんじゃなかった。それだけのことだと思うんだよ。
鷲崎さんは今、こうやって僕に甘えようとしてくれてる。自分の気持ちとか抱え込んでるものを言葉にして吐き出すっていう形でね。だから僕もこうやって応えられるんだ。結人くんのお母さんは、鷲崎さんに対してそんな風にしてくれたのかな?。そうやって甘えてくれたのかな?。そういうことをしないで逃げるようにいなくなってしまったんだったら、そんなの、鷲崎さんにはどうすることもできないことだったとしか僕には思えない」
ほとんど無意識にそこまで語って、僕は鷲崎さんを見た。彼女も僕を見てた。
そこにまた、玲那からのメッセージが届く。
『お父さんの言う通りだよ。私、自分にできることとできないことの区別もつけられないで自力で何とかしようとして結局失敗したんだ。
お父さんや絵里奈に迷惑を掛けたくなかったっていうのも確かにあった気もするけど、それって私がお父さんや絵里奈のことを信じ切れてなかったってことでもある気がする。
だけど今はちゃんと、お父さんと絵里奈に甘えてる。沙奈子ちゃんにも甘えさせてもらってる。言いたいことがあったら言うようにしてる。一人で抱え込まないようにしてる。
私は今、それができてるんだ。だからこうしてられるんだよ。
結人くんのお母さんが鷲崎さんにそんな風に甘えられなかったんだったら、鷲崎さんが力になれなくても当然だよ。私がお父さんや絵里奈のことを信じ切れなくて結局事件を起こしてしまったのと同じだよ。
お父さんや絵里奈には責任なんてない。だから結人くんのお母さんのことも、鷲崎さんの責任じゃないよ』
玲那のメッセージを見て、鷲崎さんは顔を覆って泣き出した。それは、彼女が一人で抱えてきたものをようやく下ろせた姿だと思った。結人くんのお母さんに対して抱いてた罪悪感に対する答えが出たんだと思った。
「鷲崎さん。泣きたい時には泣いたらいいんだと思います……」
絵里奈だった。タオルで顔を拭きながら、絵里奈がそう言った。
「私も、達さんや玲那の前では我慢しないようにしてます。母親としては恥ずかしいことですけど沙奈子ちゃんの前でもそうです。ちゃんと甘えさせてもらってます。だから頑張れるんです。
鷲崎さんの前でそれができなかった結人くんのお母さんとでは、結果が違ってて当たり前だと思います……」




