四百三十 「鷲崎さんからの電話」
沙奈子と一緒に家に帰った僕は、膝に座って午後の勉強を始めた彼女の姿をぼんやりと眺めながら鷲崎さんのことを思い出していた。
彼女は、僕が大学に通ってた時に、何故かしょっちゅう僕に絡んできてた。いつも笑顔ではきはきしててちょっと天然入ってる感じもしたけどすごくいい子だった。そんな子がどうして僕に関わろうとするのか、当時はまるで意味不明だった。
絵里奈や玲那は僕にそれだけの魅力があるんだって言ってくれるけど、正直、今でもピンと来ていない。ただ、二人がそう言うのならそんなこともあるのかなとなんとなく思っただけだった。
今も、ビデオ通話の画面の中で、絵里奈は人形のドレス作りを、玲那は品物の発送作業を熱心にこなしてた。そんな二人を見ながら、鷲崎さんのことを更に思い出してみる。
髪を短く切り揃えて、ただでさえ丸い顔がそれこそまん丸に見える明るい表情が印象的な彼女は、本当に朗らかで、僕とは正反対な女性だった。大きな胸がゆさゆさと揺れてたのも思い出す。ただ僕は、女性のそういう部分に対して無意識にシャットアウトするようにしてたのか、あまり気にしたことがなかったのも思い出していた。好きになれないのだから、女性的な魅力みたいなものについても関心を持たないようにしてたんだろうな。
なのに、鷲崎さんはそんな僕にお構いなしに話しかけてきて、何度か僕のアパートに手作りのおかずを届けに来てくれたこともあった。今から思えば彼女なりの精一杯のアピールだったんだと思う。ただ当時の僕にはそんな彼女を受け止めるだけの余裕がなかった。その存在を否定はしようとは思わなかった気がするけど、構ってほしくないと思っていたのも事実なんだ。冷たくあしらうようなことはしてなかったと思うものの、でもすべて社交辞令で対応していたのも間違いなかった。
それでも彼女はめげないと言うか、僕が大学を卒業して就職して、このアパートに引っ越してからも何度か足を運んでた。
だけどさすがに負担になったのか、いつしか現れなくなって、携帯を買い替えたことで連絡も取れなくなって、僕は正直、ホッとしていた。でもさっきの話からすると、彼女も就職して仕事が忙しくて時間が取れなかったっていうのもあったみたいだな。それでも気持ちが冷めたとかそういうのじゃなかったのか。
でもこの時、僕はそれ以上に気になってることがあった。彼女が預かってるっていう男の子のことだ。
僕と沙奈子のこともそうだけど、それだけでもう訳アリだっていうのが分かる気がする。どうしてそんなことになったのか気になるところだけど、それについては詳しい話が分からない限りはどうしようもないか。
ただ、もし、彼女がそのことで僕に相談したいことがあるっていうのなら、絵里奈や玲那も言ってくれたようにきちんと話を聞いてあげたいと思う。聞いたところで僕にできることなんて何もないかもしれなくても、話を聞いてもらえるだけでもホッとできることってあると思うし。
でも、この日は結局、鷲崎さんから連絡はなかった。何かすごく忙しそうにしてたし、デスマーチ中とか言ってたから、仕事の納期が迫ってて大変だっていうことなのかな。だとしたらそれが落ち着いてからになるんだろうな。
そう考えて、あれこれやきもきしないように心掛けた。
日曜日。今日は千早ちゃんが料理を作りに来る。ハンバーグだって言ってた。次々新しい料理に挑戦するのもいいけど、そういうすでにできるのをきちんと作るっていうのも大事なことなのかもしれない。まあ、お姉さんからのリクエストだったらしいけど。
お昼前、「ヨッス、ヨッス!」といつものようにやってきて三人でハンバーグを作り始めたのを見ながら、僕はまた星谷さんと話してた。今日は、鷲崎さんについてのことで。
「実は、僕の大学時代の後輩も、よその子供を預かって一緒に暮らしてるってことが分かったんです。どうやらその人も何か僕に相談したいことがあるみたいで。でも僕だけじゃどれくらい力になれるか分からないし、もしかしたらまた星谷さんにも相談したりすることがあるかもしれないですけど、大丈夫でしょうか?」
僕のその言葉に、星谷さんは少しも戸惑ったり動揺したりしなかった。いつものように落ち着いて、
「はい、山下さんからのご相談ということでしたら問題ありません。経済的な支援とかという話であれば直接は無理ですが、行政からの支援についてはすぐに調べられます」
う~ん。ここでまず『お金は出せません』とちゃんと断わりを入れてくるところはさすがだなあ。『何でも相談して』とか言いながら、お金が絡むと途端に及び腰になるっていうのはよくあることだと思う。だから最初から聞き入れられることとそうじゃないことをきっちり提示する方がむしろ親切なのかもしれない。相手に変な期待を抱かせないっていう意味で。
それに、行政からの支援だけでも実はけっこう助かるっていうのを僕も経験した。もちろん贅沢とかできるほどじゃないけど、行政からの支援っていうのはあくまで、
『支援はしますのできちんとお子さんは守ってくださいね』
っていうメッセージも込められたものであって、楽をするためのものじゃないっていうのは実感としてある。しかも子供本人に対しての支援であって、決して保護者のためじゃないんだ。それを勘違いしちゃいけないって気がする。
だけど、行政からの支援だけでも子供を飢えさせない程度のことはできるって僕も学んだ。受けられる支援を知らずに追い詰められるのはすごく残念だと僕も思うから、そういう形での知恵を貸すぐらいなら何も躊躇う必要はないって思ってる。
ただこの日も、結局、鷲崎さんからの連絡はなかった。
月曜日。またいつもの一週間が始まって、僕は淡々と仕事をこなして沙奈子を迎えに山仁さんの家に向かってた。するとバスを降りる直前になって、スマホに着信があった。鷲崎さんからだった。
「あ、ごめん。今、バスを降りる所だから少し待って」
そう言ってバスを降りてから、改めて「ごめんね。もう大丈夫だから」と話し掛けた。すると電話の向こうからも、
「ごめんなさい、お忙しいところに。ようやく仕事が一段落付きまして、先輩の都合のいい時間とか確認させていただこうと思って電話させていただきました」
って鷲崎さんの明るい声が。
「大体、夜の8時頃なら時間が空いてるかな。その頃はいつも寛いでるところだし」
「そうですか。でも、寛いでるところをお邪魔するのも申し訳ないですね」
「ああ、それはぜんぜん構わないよ」
「じゃあ、8時頃にまた掛け直した方がいいですか?」
「5分くらいなら今でも大丈夫だけど」
「あ、じゃあやっぱり掛け直します」
その言葉で、かなりいろいろ話したいことがあるんだろうなって僕は感じたのだった。




