三百九十七 「僕の夏休み」
「私は、『愛さえあればお金なんて要らない』とか軽々しく言う人は嫌いです。お金は必要なものです。弁護士を雇うのにもお金は要ります。『お金さえあれば愛なんて要らない』というのは個人の自由なので勝手にしていただいて構いませんが、逆はあり得ません。
現在の社会においてお金を否定するということは、狩猟社会において狩りをしないというのと同じだと私は思います。必要以上に求めるのは浅ましいとも思いますが、最低限、生きる為には必要なものなのです」
確かに。僕もそんなにお金お金と言うつもりはないけど、最低限のお金は必要だというのは、沙奈子を育ててみて余計に実感した。お金がなくてこの子を飢えさせるのなんてありえない。僕が今の会社にしがみついてるのだって、お金が必要だからだ。『愛さえあればお金なんて要らない』というのは、正確には『最低限必要なお金さえあれば、あとは愛だけあればいい』という意味だとしたら納得できる。飢えるほどになってくると、まず正気を保つのが難しくなるんじゃないかな。
絵里奈も玲那も、僕たちの生活を守るために働いてくれてる。玲那は普通の仕事に就くのはもう難しいかも知れなくても、自分たちで仕事を作ってでも働くっていう意思はある。フリマサイトでの売り上げも、コンスタントにそれなりの額が入ってきてる。このままいければ、来年には確定申告しなきゃ脱税になってしまうくらいには稼げてる。ホントにすごいよ。
いろんな働き方はあると思うけど、きちんと働いて自分で生きる糧を得るというのは、やっぱり基本だと僕も思う。ただ、星谷さんとかは今の時点でもう、僕と絵里奈と玲那の三人で立ち向かっても全く敵わない程度には稼いでるらしいけどさ。そうやって稼いだお金を、自分の目的の為にはしっかり使って、そしてきちんとリターンを得る。大きく稼ぐ人ってきっとそうなんだろうなっていうのも感じる。
もし、本当に沙奈子のそれが事業として成立するなら、それによって星谷さんにもちゃんと利益を還元できるようにしたいな。
何年先になるか分からないけど……。
でもまあそれはさておき、今日も美味しい肉じゃがをいただいて、千早ちゃんたちは帰っていった。明後日はいよいよ海だ。
午後の勉強を終わらせて、買い物に行って、また水浴びして、寛ぎつつ人形の服を作ったり、発送作業したり、雑談したり、仕事を終えた絵里奈を迎えたりと、いつも通りの時間を過ごした。
夕食も終えて山仁さんのところへ行くと、明後日の海の話でもちきりだった。波多野さんのお兄さんの件については、次の裁判までいろいろ準備する段階でこれといった進展もないから待つしかない状態だったし。だから波多野さん自身も開き直って楽しめることは楽しもうって思えてるみたいだ。
それでいい。それでいいんじゃないかな。
被害者だからって、加害者の家族だからって、ずっと事件のことばかり考えてなきゃいけないわけじゃないはずなんだ。楽しめるときは楽しんで、息抜きできるときは息抜きして、人としての人生を送っていけばいいはずなんだ。
無責任な人たちはあれこれ言うかもしれない。だけど実際に苦しんでる人がホッとする瞬間を求めることを否定できる道理はないと僕は思う。以前はそこまで考えたこともなかったけど、こうやって自分たちが当事者になってみると、そればっかりじゃいられないっていうのがよく分かった。人生は画面の中だけのフィクションじゃない。画面に映らない部分もあるんだ。ううん、画面に映らない部分の方がはるかに長いんじゃないかな。
ドラマがエンディングを迎えたって、そこに生きてる人間としての人生はその後もずっと続くんだ。ハッピーエンドの後で結局はうまくいかなかったりするかも知れない。バッドエンドの後でまた別の何かが生まれるかもしれない。それが『生きる』っていうことなんじゃないかな。
僕は自分を、ただの物語の登場人物だとは思わない。僕はここにいて、確かに生きてる。もし誰かが僕の人生の切り取られた一部分を見てるとしても、それが僕のすべてじゃない。そしてそれは、沙奈子も、絵里奈も、玲那も同じなんだ。千早ちゃんも、大希くんも、星谷さんも、イチコさんも、波多野さんも、田上さんも、山仁さんも同じなんだ。僕が出会ったすべての人がそうなんだ。
中には出会ったことを喜べない人も確かにいる。二度と関わりたくない人もいる。でもそういう人たちだって、僕にとっては不都合な存在だったとしても、また別の視点の誰かからは大切な存在なのかもしれない。この世の中は、そういう人たちが集まってできているんだっていうのをすごく感じる。
沙奈子のこれまでの境遇も、絵里奈の過去も、そして玲那の苦しみも、すべてが僕たちの人生の一部分でしかない。いつか波多野さんも、今回のことがそういう人生の一部分でしかないって実感できるようになれればいいなって思うんだ。波多野さんがいつかそう思えるように、僕も力になりたい。そのために、まずは明後日の海ってことかな。
月曜日。僕も夏休みだから一日、沙奈子と一緒にいる。今日はもう、明日に備えて体と心をゆっくりと休める日だと決めた。とにかく、一日のんびりする。いつも通りのパターン以外には余計なことはしない。
「今日はゆっくりできるね、お父さん」
沙奈子もそう言ってくれた。その通りだ。一日ずっと、こうして沙奈子を膝に抱いてこの子を感じていたい。後ろからぎゅーっと抱き締めたい。でも今は針仕事してるから我慢我慢。
玲那ともちょちょこやり取りしながら、ゆったりとした時間が流れていった。
ああ、なんて理想的な休日なんだ……。
しみじみそう思う。
明日はちょっと大変そうだから、余計に今日のこの一時をじっくりと味わいたい。実に満たされるなあ。
だけどそういう時っていつも以上に時間が過ぎるのが早い気がする。気が付いたらもう夕食の時間だ。お昼はさらっとそうめんにしたから、夕食はちょっとこってり目のカルボナーラになった。手慣れた感じでカルボナーラを作る沙奈子の姿に見惚れてるうちに出来上がった。
絵里奈と玲那の方も同じようにカルボナーラだ。四人で一緒にそれを食べる。家族の時間だなあって思った。
夕食の後はまた山仁さんのところに行ったけど、結局は明日のことの話をしただけだった。しかも波多野さんがウキウキした感じで、
「うひひ、楽しみだなあ~!」
ってニヤニヤ笑ってた。田上さんも、
「水着、新調したよ~」
って嬉しそうだった。星谷さんは、
「無事に過ごせることを最優先にしたいと思います」
なんてさすがに真面目なことを言ってたけど、イチコさんに、
「ヒロ坊の相手はよろしくね」
と言われた時には顔を真っ赤にして「…はい」とすごく可愛い表情になってた。
後はもう、天気さえ悪くならないでくれたら申し分ない感じかな。




