三十八 沙奈子編 「事件」
そう言えば、沙奈子が学校に行きたくないなんて言い出したことですっかりそれどころじゃなくなってたけど、実は、沙奈子のクラスの女の子が一人、夏休み中に転校になったというお知らせのプリントを、彼女がもらってきてた。それを見た瞬間に僕は、例の下着泥棒の姪の女の子が転校することになったという話を思い出していた。今回のお知らせの子がそうだっていう確証はないけど、もしそうだったらその子は今、どんな気持ちなんだろうと思って胸が苦しくなった。
もし沙奈子がそんなことになったらと思うと、それこそたまらない気持ちになる。何があっても僕は犯罪とかしちゃいけないと肝に銘じた。兄が何かやらかすかも知れない可能性はあったけど、でもその場合だとむしろ沙奈子自身も育児放棄の被害者なんだから、そっちはそれで押し通せばいいかなっていう気はする。
いまさらだけど、人がいればそれだけいろんな事情を抱えてるんだって思い知らされる出来事だった。
そう考えると余計に、石生蔵さんという子のことが気になってくる。もしかしたら家庭環境に問題があるんじゃないかって気がしてくる。もしそうだとしたら、僕はもちろん学校もそこまで口出しできないだろうから、やっぱり完全に解決するのは無理かも知れないって思えてくる。
ヤキモチ焼きな人っているからな。当の沙奈子がそんなに気にしなくなってきてるのなら、それでいいのかも知れないと改めて思う。実際、次の週に入っても、沙奈子はわりと落ち着いた感じだったから。それでも学校の方は、石生蔵さん自身の問題として、指導を続けているらしい。とは言っても、沙奈子自身がもうそんなに深刻なこととして受け止めてないということで、対応を一段階下げて、学年主任の先生が常駐してたのをやめたとも言ってたけど。
「沙奈子は大丈夫なのかな?」
って聞くと、「うん」と頷いた。確かに大丈夫そうだ。でも、
「石生蔵さんと仲良くできそう?」
って聞くとやっぱり首を横に振る。さすがにそれは無理なのか。そこで、
「石生蔵さん、相変わらず先生に注意されたりしてる?」
って聞いてみると、今度は頷いた。先生も大変だなあってしみじみ思った。
だけど、金曜日。僕が仕事から帰ると沙奈子は何か困ったような顔をしてるように見えた。辛そうっていうんじゃないけど、とにかく何か困ってる感じだった。
「どうかしたの?」って聞いても、首をかしげるだけで答えてくれない。と言うか、どう話していいのか分からないっていう感じだった。
「石生蔵さんに何かされた?」
って聞くと、首を横に振る。でも、
「石生蔵さんが何かしたの?」
って聞いたら頷く。だから石生蔵さん絡みなのは間違いないと思うんだけど、一体、何があったんだろう?。
事情はよく分からないけど、とにかく今は歯医者に行かなきゃと、僕は沙奈子を連れて出掛けたのだった。
「今回で治療は終わりです。頑張りましたね」
前回来た時に言われてたからその通りになっただけだけど、二ヶ月以上に渡った沙奈子の虫歯治療がようやく終わった。見ると奥歯の殆どが詰め物や被せだらけになってしまってて、何とも言えない気分になった。
「口腔ケアの方はしっかりしていただいてるようで、綺麗ですよ。今後もこの調子でお願いします」
そう言われたのはちょっと誇らしい気がした。
だけど、治療が終わったということはもう残業を断る理由もなくなったっていうことだから、それは少し残念だとも思う。
歯医者から帰る時も、これで当分来ることもなくなるんだなと思うと何となく変な気分にもなる。本当は、来なくて済めばそれに越したことはないんだと思うけど。
アパートに戻ると、やっぱり水谷先生が待ってくれていた。ただ今回はちょっと説明することが多いということで、部屋に上がってもらうことになった。
「実は、今日、沙奈子さんのクラスでちょっとした事件がありまして」
先生が真顔でそう言ったから、僕は思わず姿勢を正した。沙奈子の様子が少し変だったことに関係あるんだろうか。一体、何があったっていうんだろう?
「今日のお昼休みから5時間目にかけての事なんですが、石生蔵さんと山仁さんとでトラブルになってしまったようなんです。それで、山仁さんが教室を飛び出してしまい、5時間目になっても戻ってこなかったのでクラスのみんなで校内を探したんです」
え…?。それって…?
僕は驚いた。まさかあの山仁さんの息子さんが、そんなことをするとは思ってもみなかった。しかもそれって失踪ってこと…?。
「幸い、探し始めてから割と早い時点で、運動場脇の築山に一人でいるところを沙奈子さんが見付けてくださって事なきを得たんですが、今回のことはさすがに特に注視すべき案件として対処することになりました」
特に注視すべき案件…。その穏やかじゃない表現に、喉が詰まるような感じを受ける。
「沙奈子さんと石生蔵さんとの問題が小康状態になったと判断して対応を一段階下げていたのはお知らせした通りで、その後も特に状態が悪化する兆候は見られないと思っていたので、その一方で石生蔵さんと山仁さんの関係が少し拗れていたことを見落としてしまっていたようです」
と言うと…?。
「山仁さんが、沙奈子さんと石生蔵さんの間に入って関係をとりなそうとしてくれていたのは分かっていたんですが、以前にもお話した通り、石生蔵さんは山仁さんのことが好きだったらしく、それで、沙奈子さんを山仁さんから遠ざけるんじゃなくて、山仁さんに直接、自分をアピールすることで振り向いてもらおうとしていたようです。それが行き過ぎてしまったようで…。放課後、山仁さんと石生蔵さんからそれぞれ話を伺って、他の児童たちの証言とも併せて、現在のところそういうことだろうと推測しています」
ああ、なるほど、そういう事か!。
「更に詳しいことは、土日を挿んで気持ちを落ち着かせてもらってから月曜日以降に改めて話を聞くことではっきりさせたいとは思ってますが、今回のことが沙奈子さんに対してもどのような影響を及ぼすかは今のところ未知数ですので、合わせて注視していきたいと思います」
その他にもいろいろと細かいことを報告してくれた後、水谷先生は帰っていった。だけど僕は、今回、山仁さんの息子さんがそんなことになったというのが気になって仕方なった。先生はああ言ってたけど、もしかしたら沙奈子を庇おうとしてそんなことになったんじゃないかって…。
だから、思い切って山仁さんに電話を掛けてみることにした。何て言われるか分からないっていう不安もあったけど、山仁さんなら大丈夫っていう変な確信もあった。
「はい」
コールの後に短くそう言われて、僕は背筋が伸びるのを感じた。
「お忙しいところすいません。山下沙奈子の保護者の者ですが…」
僕がそう言うと、また声のトーンが一段上がって、
「ああ、沙奈子ちゃんのお父さん。お久しぶりです」
以前、沙奈子のおねしょの件でお会いした時と変わらないその感じに、ほっと胸を撫で下ろす。そして一通り社会人同士の挨拶を交わした後で、僕は本題に入ったのだった。




