三十七 沙奈子編 「転換」
歯医者から帰ると水谷先生が待っていて、経過報告を受けた。でも今回は特に目新しい内容はなかった。やっぱり、人を好きになる気持ちと、それに伴うヤキモチで誰かを傷付けてしまうことをいかに切り分けて考えられるようにするかというのをどう理解してもらうかの点で苦労してるのが伝わってきた。
だよなあ。それは僕でも分かる気がする。そして結局、
「今後も注意深く見守って、粘り強く指導を続けたいと思います」
ということで今回の報告は終わった。ただ、解決はしてないけど、沙奈子の様子を見る限り、状況が悪くなってるわけでもない感じだから、それだけでもありがたいと思う。こういう細かい人間関係のいざこざは無くなることはないはずだから、それをきっかけに深刻な問題にさえならなければいいんじゃないかっていう気もする。実際の人生って、マンガやドラマみたいに盛り上がってそしてバーンと決着してって感じじゃないもんな。多くの場合は、なし崩し的にうやむやになるっていうのがほとんどなんだろう。それで言えば、むしろ上手くいってるのかも知れない。
それにしても、ここまで何度もわざわざ家にまで足を運んで報告してくれるなんて、本当に頭が下がる思いだった。ここまでしてくれたら、こっちも協力しないとっていう気にもさせられる。少なくとも余計な手間を取らせて煩わすことはしないでおかなくちゃと感じた。
最近色々と話題になってるモンスターペアレンツとかの話は、確かに無茶苦茶なことを言ってくる人も中にはいるんだと思うけど、実際にはその多くが学校への不信感から感情が昂ってしまってるのも多いんじゃないかなって、最近は特に思う。沙奈子の学校くらい最初から丁寧に対応してもらえてれば、変に口出しする方が問題を拗らせる気がするし、何より学校に任せてもいいって思える。僕が通ってた小学校と比べるとさらにそう思えてしまう。
まあそういうわけで、ここはもう焦っても仕方ないと考える覚悟が僕にもできていた。合う人合わない人がいる方が当たり前だもんな。今回の件はちょっと違うかも知れないけど、沙奈子みたいな子とはウマが合わないっていう人もきっとたくさんいるはずだ。そういう人たちとも必要以上にぶつからないでやり過ごす方法を、沙奈子も身に付けなくちゃいけないんだろうって思う。だから今回の件は、そのための丁度いい練習だと考えるのが一番なんじゃないかなって改めて思った。
なんて偉そうに言ってるけど、僕自身はこれまで、合わない相手は単にスルーするっていうだけだったんだよな。情けないけど。だから彼女には僕よりちょっとだけ上手にできるようになってもらえたらって思う。ちょっとだけでいいから。
でも、僕のそんな気持ちが通じたとまでは思わないけど、翌週の沙奈子は、わりとずっと落ち着いた感じだった。それで水曜日くらいに思い切って、
「最近、落ち着いてるみたいだけど、石生蔵さんと仲良くできるようになった?」
と聞いたら、少し困ったような顔をして首を横に振ったのだった。だから状況自体はそんなに変わってないんだって気がした。ただ、沙奈子の方が慣れたって言うか、石生蔵さんがそういうことをせずにいられないのを受け止められるようになってきてるんだって感じた。
そうだよな。彼女はずっと辛い環境に耐えてきたんだ。こんなに大人しくてか弱そうに見えても、沙奈子自身は決して弱くないはずなんだ。この小さな体には重すぎる不幸を背負って頑張ってきたんだもんな。誰かがその重すぎるものを少しだけ一緒に支えてくれるだけでも、全然違うんじゃないかな。僕が沙奈子の過去と普段の彼女を、学校の先生が学校での辛いことを、少しだけ支えられればいいんだって思えた。
「沙奈子は頑張ってると思う。嫌なことから逃げないで頑張ってる。本当にすごいよ。尊敬する」
そう言って抱き締めると、やっぱり彼女は照れ臭そうに笑った。彼女なりに頑張ってることを認めてもらえたのが嬉しいんだって感じた。
そしてまた金曜日。歯医者に来ていた僕と沙奈子は、
「恐らく次で最後の治療になると思います。よく頑張りましたね。あと少しですよ」
と歯科医の先生に言われて、ちょっとだけ呆気にとられてた。何となくもうこれが習慣になってたから、これからもずっと続くような気分になってたからだ。そうだよな。虫歯の治療なんだから、いつかは終わるんだ。それがようやく来たってだけなんだ。
だけど…そう、だけど、治療が終わるのが嬉しいのと同時に、これで残業を断る理由もなくなって、早く帰れなくなるのかと思うと、それはそれで残念な気もした。
「なんか、もう終わるって思ったら変な感じだね」
歯医者から出て自転車に乗る時、沙奈子にそう言ったら、彼女も頷いた。
「歯医者に行かなくなると僕もずっと仕事で遅くなるけど、大丈夫かな」
その言葉にはちょっと残念そうな顔をしながらもやっぱり頷いてくれた。仕方ないって分かってくれてるんだって思った。物分かりが良すぎるくらい物分かりがいい彼女だけど、理解してくれてるのは正直ありがたかった。ここでワガママを言われたら、僕もどうしていいか分からなかったと思うし。
「それじゃ家に帰ろうか。水谷先生も待ってるかもしれないし」
そう言って家に向かって出発する。これももうあと一回なんだなあ。
家に着くと、やっぱり先生が待ってた。挨拶をして玄関を開けて、すぐに終わるからということでいつもの通り部屋には上がらず、報告してくれた。
すると先生が、
「石生蔵さんの方はまだ相変わらずなんですが、最近、沙奈子さんの方が石生蔵さんに慣れてきたのか、結構堂々としてらっしゃる感じですね」
と言ってくれた。学校でもそう見えるんだって思った。
「なので、沙奈子さんの方の心配は少し減ったように思いますが、やはり石生蔵さんの方については、今後も指導を続けていかないといけないと感じます」
それは僕も感じる。沙奈子が平気になったからって、石生蔵さんのそういうのを放っておいたら、本人のためにもならない。今後また他の形で問題になる気もする。辛いことに慣れてるって言ったらおかしいけど、その沙奈子が学校に行きたくないって言い出すくらいなんだから、彼女より弱い子がターゲットになったりしたら、きっともっと大変な事になる。その石生蔵さんっていう子にも、自分のやってることが自分のためにならないってことに気付いてほしいと、素直に思えた。
僕は直接、石生蔵さんには何もしてあげられない。そんな立場にないから。だけどもし何か協力できることがあるんなら、協力してもいいって思う。そうやって沙奈子のクラスの問題が解決するなら、それ自体が沙奈子のためにもなるわけで。
不思議だよな。沙奈子に意地悪した子を助けてあげることが沙奈子のためにもなるって。でも人間関係って、そういうもんなんじゃないかなって、僕も今回のことで学んだ気がしたのだった。




