三百六十三 「正しい選択」
玲那が星谷さんに話し掛けようとしていたことは、単なる無責任な噂話じゃなかった。保木仁美さんから聞いた話を広めることが目的じゃなかった。それなのに、安直にそういう風に思ってしまった自分自身が許せなかった。
ごめん、玲那……。
心の中で謝りながら、玲那と星谷さんのやり取りを見てた。すごく大切なことを話し合ってるんだって思った。女性なら誰もが巻き込まれるかも知れない大事なことを……。
玲那がされたことは、そういう可能性も含んだことだったんだっていうのを改めて思い知らされていた。もしそれで妊娠とかしてたとしたら、また別の問題に発展してたかもしれないんだ。
望まない妊娠。それを受け入れるかどうかの選択。そして出産、もしくは中絶……。
重い…。重過ぎるよ…。だけど大事なことだ。もしかしたら沙奈子にだって降りかかるかもしれないことだ……。
もし沙奈子がそんなことになったらと思うと、想像するだけで頭がおかしくなりそうだ。玲那がそういう目に遭ってきたというのを考えてもたまらなくなる。
『沙奈子や玲那をそんな目に遭わせた奴なんて、殺してやる…!』
そう思ってしまう。それはまさに、波多野さんのお兄さんがやったことでもあった。なのに、それについてはどこか他人事で、まだ冷静でいられた。だけど沙奈子や玲那がって思ったら、もう耐えられそうにない。
でも玲那が言ってたことは、そこからさらに踏み込んだことなんだな。
望まない形で宿ってしまった命であってもそれは確かに命で、けれどその命を受け入れられそうにない自分が苦しいっていう……。
たぶんそれは、保木さんと出会ったことで、保木さんが清香ちゃんを受け入れたのに自分は同じことができなかったかもしれないっていうのを思い知らされたっていう形で改めて実感してしまったんだと思う。
優しすぎるよ、玲那……。
そしてそんな彼女を、星谷さんは受け入れると言ってくれたんだ。その命を受け入れる選択をしても、受け入れない選択をしても、そのどちらも正しいことなのだから自分を責めなくてもいいと言ってくれてるんだ。
本来なら僕が言うべきところを、星谷さんに先に言われてしまった。情けない。
ただ、決して自分がそういう経験をすることがない僕が言うよりも、同じ女性である星谷さんが言う方が意味がある気もする。真実味がある気もする。
『ありがとうございます、星谷さん』
そうメッセージを送ってきた玲那は、ホッとしたみたいな顔をしてたと感じた。
『絵里奈やお父さんや沙奈子ちゃんはそう言ってくれると分かってるけど、他の人がどう言うのか知りたかった。
産むべきだとか、中絶するべきだとかどっちかを言ってくるのがほとんどだと思う。だけど星谷さんは、どちらかじゃなくてどちらも正しいと言ってくれた。
先にその言葉を聞けて良かった。これでもう他の人にどっちかを言ってこられても大丈夫だって感じる』
「お役に立てたのでしたら光栄です。私にとっては玲那さんも大切な仲間の一人ですので厳密には無関係な赤の他人ではないかも知れませんが、山下さんのご家族から見れば第三者的な立場にはあると思います。その第三者としての正直な意見です」
はあ~…。立派だなあ……。
玲那のことを真っ直ぐに見詰めてそう締めくくる星谷さんを、僕は見詰めてしまってた。
僕が高校生の頃なんて、そんなこと全く考えてなかった気がする。星谷さんは本当に人生とかについても真剣に考えてるんだろうなって改めて思った。だから大希くんのことも単にミーハーな気持ちじゃなくて真剣に考えてるんだろうって思えた。
こんなすごい人と知り合えたことに、こんなすごい人と知り合える山仁さんに、ただただ驚かされるだけだった。
だけどこんな立派な人でも波多野さんのお兄さんについては持て余すんだから、人間っていうのは難しいなってことも改めて思い知らされる感じだった。しかもこの星谷さん自身、後悔するべき過去があるっていうんだもんな。僕が悔やんでばかりの人生だったなんて、当たり前のことだとしか思えない。
そうこうしてる間にも、千早ちゃんたちの手による肉じゃがが出来上がった。日曜日で絵里奈がいないから沙奈子主導でのそれだったけど、
「うんめぇ~!」
と、千早ちゃんが満面の笑顔でそれを頬張ってた。それは沙奈子の料理の腕について褒めてくれてるのと同じだと感じて、僕も嬉しくなった。
『いいなぁ~…』
玲那が画面の向こうからメッセージを送ってくるけど、その玲那が食べてるのは絵里奈が用意してくれた肉じゃがだった。正直、僕にとってはそっちも羨ましいかな。
昼食が終わって千早ちゃんたちが帰った後、沙奈子が午後の勉強をしてる時、玲那がまたメッセージを送ってきた。
『星谷さんってホントすごい人だよね』
僕が感じたのとまったく同じ感想に、思わず声を出さずに笑ってしまう。ホント、すごいとしか言えないよ。
『まったくだよ。同じ世界に生きてる人とは思えないくらいだ。って言うか、元々は別世界かもしれないけどさ。セレブさんだし』
『そうなんだよね。セレブさんなんだよね。それがどうして私たちと一緒にいてくれるのか、不思議』
『それはもう、大希くんのことが好きっていうのが一番なのかな。もちろん、イチコさんの友達だからっていうのもあるんだろうけど』
『そうそう、そこなのよ。星谷さんってイチコさんと同じ学校なんでしょ?。普通の公立の。もっと凄いところにだって行けたはずなのに、どうしてなんだろ』
『ご両親の意向だとは言ってたけど、敢えて普通の公立に行かせるっていう判断がもう並じゃないのかな。そういうご両親の下で育ったから星谷さんはああなんだなって思えるよ』
『同感』
星谷さんに尋ねた件についてはもうすっかり納得できたのか、玲那の様子は完全にいつも通りに戻ってた。あんなに重い話でもこうやって何気なくできるっていうのも大事だって思えた。重い話でも当たり前にできるからこそいろんなことが話し合えるんだろうし。これからも、そういう形を保っていきたいと思った。
一人で抱え込まないで、家族みんなで支え合うんだ。弱い人間だからこそ、力を合わせるんだ。そうしないと僕たちなんてすぐに潰されてしまうと思う。
この世界は決して優しいだけじゃない。無自覚な悪意も渦巻いてる。善意のつもりで他人を追い詰める人もいる。レイプされた女性が妊娠してしまった時、本人がどちらを選ぶのかについてあれこれ口出しする人も、やってる本人は善意のつもりなんだろう。でも、その女性本人が選んだことについてきついことを言うのは、僕は善意だとは思わない。それはただ、自分の意見を押し付けたいだけなんじゃないかな。
そんなことがあって欲しくないけど、もし、沙奈子が望まない妊娠とかした時にも、僕はこの子自身を受け止めたいと思ったのだった。




