三百六十二 「玲那の質問」
沙奈子が久しぶりにおねしょしてしまったおむつをゴミ箱に押し込んだ後、二人で着替えてた時、部屋がミシッて音を立てて揺れた。地震だった。一瞬で収まったから『おっ?』と思っただけで済んだけど、テレビを点けたら今度は長野の方で結構大きな地震があったっていうことだった。大きな被害が出てなければいいけどって僕はまた思った。
それからは、僕たちにできることもないからいつもの通りに時間を過ごして、千早ちゃんたちを迎えた。
「地震あったね。ちょっと驚いちゃったよ」
千早ちゃんも部屋に入ってくるなりそう言ってた。でもその後はいつも通りにして料理を始めた。今日は肉じゃがらしい。
星谷さんといつものように子供たちのことを見守ってたら、不意に、
「何かあったんですか?」
って聞かれた。
どうして急にそんなことを聞かれたのかピンと来なくて、
「え…?。僕、何か変な顔とかしてましたか?」
と聞き返してしまった。すると星谷さんは「そういう訳ではないですが…」と前置きした後で、
「三人を見る山下さんの表情がいつも以上に真剣な感じでしたので」
だって。僕、そんな顔してたんだと驚かされてしまった。
『何々?、何の話?』
と玲那もメッセージを送ってくる。いつもの通り品物の管理作業をしてたら僕と星谷さんのやり取りが耳に入って気になったらしかった。
別に誤魔化す必要もないし、星谷さんなら事情も知ってるしということで、僕は正直に話すことにした。
「何かあったと言うか、実は昨日、偶然、玲那の裁判で証言してくれた保木仁美さんに会ったんです。それで、いろいろ話を聞いて沙奈子のこととかまたあれこれ考えてしまって…」
そう。沙奈子たちのことを見守りながら、保木さんのことも思い出して僕も今まで以上にちゃんと受け止めるようにしなくちゃみたいなことを考えてたんだ。
「なるほど。そういうことでしたか。保木さんについてはなるべく関わらないようにしてほしいというのが先方の条件でしたが、偶然にも出会ってしまうというのはどうにもできませんからね。保木さんのご様子はどうでしたでしょうか?。弁護士の方もあれ以来、会えてないらしいのですが」
「娘さんも一緒だったんですが、お元気そうでした。保木さんも人形が好きみたいで、人形のギャラリーで鉢合わせしてしまったんです。その後、いろんなことを話していただけて勉強になりました。連絡先も交換できましたから、偶然とはいえ会ってしまったことは気にしてないようです」
「それは良かった。条件を破ってしまったことになっては私としても申し訳ありませんから」
そんな風に言った星谷さんの表情がホッとした感じだったから、すごく気を遣ってくれてたんだろうなっていうのを感じてしまった。すると玲那の方からも、星谷さんへメッセージが届いた。
『星谷さん。保木さんの娘さんのことはお聞きしてましたか?』
「いえ…?。娘さんがいるというのも初耳です。直接お会いしたのは弁護士だけでしたから、その辺りは他言無用ということだったのでしょう」
『そうですか』
玲那もそれきり何も言わなかった。ただその時の顔が、少し残念そうな感じにも僕には見えた。話したいことがあるけど話せないって感じの顔だった気がした。
そんな玲那を見て、星谷さんが口を開いた。
「人にはそれぞれ事情があると思います。私は今では、必要のない時にはそういうことを詮索しないように心掛けてます。保木さんがお話しした内容については、私は残念ながら部外者です。それに関与できる立場にありません。皆さんも口外なさらないであげてほしいと思います」
玲那の様子に何かを察したみたいに、星谷さんはそう言った。高校生の女の子にそれを諭されるとか、ちょっと恥ずかしかった。
女性ってこういう時はついつい、内緒話を広めてしまう傾向があるのかもしれない。だけど星谷さんは強い理性で敢えてそういうのを抑えてるんだろうな。やっぱり僕たちよりよっぽど大人だよ。彼女に釘を刺してもらってなかったら、僕もうっかり、保木さんがレイプされて娘さんを妊娠したことを話してしまいかねなかったから。
星谷さんは僕たちにとっては家族の次に親しい人の一人かもしれないけど、保木さんにとってはそうじゃない、ひょっとしたら名前も存在そのものも知らない人かもしれないもんね。勝手に保木さんのプライベートなことを話していい相手じゃないんだ。
星谷さんのそういうところも、僕たちにとっては頼りがいがあって信頼できる部分なんだと感じた。
でもどうしても、玲那にとっては聞きたいことだったらしかった。しばらく間を置いてから、
『ちょっと話いいですか?』
とメッセージを送ってきた。
『星谷さんなら、レイプされて妊娠してしまった赤ん坊ってどうしますか?』
その質問に、僕はギョッとなってしまった。いくら間を置いたからってさっきからの話の流れだと、保木さんに関係した話だっていうのがバレバレじゃないかなって思ってしまった。せめて日を改めるべきじゃないかなって思って玲那の顔を見てしまった。だけどその顔を見た時、僕は何も言えなくなってしまった。悲痛な感じの、どうしても、今、それが聞きたいっていう切実さが見えてしまった気がしたから。
すると星谷さんは、敢えて話の流れについては何も触れず、ただ玲那の質問に答えてくれた。
「難しい質問です。今の私には答えを出せません。受け入れることができるのかできないのかも分かりません。その時になってみないと…。
ただ、もし玲那さんにそういうことがあったとしたら、私はどちらの選択をしたとしても認めると思います。どちらが正しいではなく、どちらも正しいのだと思います」
「……」
僕も玲那も、言葉が出なかった。いつもいつも思わされるけど、本当に高校生の女の子の言葉とは思えなかった。僕たちよりずっと年上の、たくさんの経験を積んできた人の言葉としか思えなかった。そんな星谷さんに対して、玲那はやっとっていう感じでメッセージを送ってきた。
『私も無理矢理だったから、もしあの時、それで赤ちゃんができてたりしたらどうしようって思ったんだ…
初潮前だったこともあると思うけど幸い妊娠はしなかった。でも万が一ってことは有り得たんだよね。
その万が一があった時、私はきっとその赤ちゃんを受け入れられなかったと思う。
それが怖くて…、私、赤ちゃんを殺してたかもしれないって……』
…この時、玲那が感じてた苦しみは、男である僕には永久に経験することもできない。理解できないものだと思った。涙を浮かべうなだれる玲那を抱き締めてあげることもできない自分が情けなかった。
そんな僕の前で、星谷さんが静かに玲那に声を掛けたのだった。
「玲那さん…。もう一度申し上げます。どちらが正しいのかではなくて、どちらも正しいんだと思います。どうかご自身を責めないでください…」




