三百六十 「ひーちゃん」
「…裁判の時には、弁護士が私の証言内容を添削してくれてそれを暗記すればよかったんだが、検察側から想定外の質問が出てれば危なかった。私が猫を被ってるのがバレると印象が悪くなってただろうからな…。
だが、話した内容は、私の記憶にある限りでは事実だ。あとは私自身の心証の問題だった。裁判官や裁判員の同情が得られるかどうかのな…」
なんていう裏話を聞かされて、僕たちは呆気に取られてた。道理で裁判の時には普通に話せてた気がしたのに、今はすごくぶっきらぼうな話し方になってるわけだ。
ただ、玲那は逆にそれで昔の記憶と繋がったらしい。
『思い出した。あなた、ひーちゃんだよね』
そういう喋り方をする女の子がいたことを思い出したってことだった。
『ひーちゃんは、泣いてる私をぎゅっとしてくれたりしたんだよ。
話し方は怖かったけど優しい子だって思ってた。
でも、ホントは中学生だったんだね。私より一学年くらい上なだけかと思ってた』
そうだったんだ…。何もできなかったと裁判では証言してたけど、その中でもそれくらいのことはしてくれてたんだ。
玲那のメッセージを読んで、保木さんはちょっと目を逸らした。頬が少し赤くなってる気がする『優しい子だって思ってた』ってところで表情が変わるのが分かった。照れ臭いんだろうなって感じた。
「…私は、言語野に若干の障害があって、咄嗟にうまく喋れないんだ…。この口調は小さい頃に見てたアニメかなにかの影響らしい…。その頃の両親は、私をテレビ漬けにしていたからな…。
なのに、私の口調がそうなったのに気付くと今度はテレビを禁止して、口調を治そうと私に厳しく当たった。でも手遅れだった。きつく当たれば当たるほど、その時の両親の口調も合わさって私の口は悪くなっていった…。
すると両親は余計に私に厳しくなった。悪循環だ…。
両親が私の障害を正しく理解してればそうはならなかったのかもしれない…。私の育児をテレビに任せず、私の前で丁寧な言葉遣いを心掛けていればこうはなってなかったのかもしれない…。
私がこの障害のことを知ったのは、大人になってからのことだった。娘が生まれて、娘が私と同じになっては申し訳ないと思ってどうにか治そうと思ったんだ…。
しかし結局判明したのは障害のことだった…。今の職場はこのことを理解してくれてるから助かってる…。娘も、ベビーシッターに話し掛けてもらうことで何とかなった…。
だが両親は、いまだに私のことを許してない……」
保木さんの告白に、僕たちは言葉もなかった。
裁判のことについての話になると思ったし、そうなると詳しい内容は小さな子にはちょっとあれかと思ったから、保木さんの娘さんは沙奈子と一緒に隣の席に座って本を読んでもらってた。今日見たのと同じような人形のことを紹介してる本だった。それでも当然、話は聞こえる。娘さんは僕たちの方を向いて言った。
「でもわたしのおかあさん、とってもやさしいんだよ。おくちはわるいけど、とってもやさしいの」
その言葉に、一番反応したのは玲那だった。大きく頷いて、『そうだね』って口を動かした。すると娘さんは嬉しそうに笑った。分かってくれたことが嬉しかったんだと思った。
保木さんはそんな娘さんに、ふわっとした感じの柔らかい視線を向けた。お母さんの目だと感じた。
「この障害のことを知らない人間は、私の努力が足りないって言う。治す気がないから治らないんだと言う…。
だが、私だって努力はしたつもりだ。話し方教室というのにも通った。そして、そこの講師から、一度病院で詳しく検査を受けたらどうかと勧められて、それで障害が判明した…。
私は救われたような気がしたよ…。それまでの努力が報われた気がした。足りなかったのは努力じゃなくて理解だったんだと分かった…。
そして私は、昔の自分を清算しようと思った。裁判で証言したのも、そのためだ。私は自分のために証言台に立ったんだ…。
自分で自分を理解してなかった、愚かだった自分を贖うためにな……」
人は、それぞれいろんなものを背負って生きてるんだとつくづく思った。この、一見すると少女みたいな女性にも、濃密な背景があるんだって思わされた。でもその後に聞かされた話は、さらに僕たちを驚かせた。
「この子は、清香は、私がレイプされた時にできた子なんだ……」
「…え…!?」
まさかと思った。まさかこんなところでそんなことを告白してくるとは思ってもみなかった。呆然とする僕たちを前に、保木さんは続けた。
「相手はどこの誰かも分からない行きずりだった。その頃の私は誰のことも信用できなかったから誰にも相談しなかった。そしたらしばらくしてこの子を妊娠してることが分かった…。
言葉遣いを治すこともできない、努力の足りない私への罰だと思った…。だから中絶はしなかった…。
それにこの子には、生物学上の父親のしたことは関係ない。この子が父親の責任を取らされる理由はない…。
もし私が育てられない時には、施設に預かってもらおうと思った…。たとえ施設で育っても命があれば可能性は残されるから…」
僕たちは言葉もなかった。玲那はうなだれて、絵里奈は顔を覆ってた。だけど僕は保木さんを見た。何て言っていいか分からなかったけど、そうすることで彼女の選択を認めようと思ったんだ。すると保木さんが、ほんの少しだけ笑ったように見えた。沙奈子の微妙な表情の変化を読み取るようにしてたからこそ分かったんじゃないかって思うくらい、微かな笑顔だった。
「一度にここまで話したのは、あなた方が初めてだ。黙って聞いてくれたことに感謝する…」
本当に、いろんな人がいるんだな…。辛いのは自分たちだけじゃないっていうのを思い知らされる。
保木さんはなおも続けた。
「せっかくだから話させてもらおうと思う…。
障害を持って生まれたことも、両親がそれを理解してくれなかったことも、レイプされたことも、世間一般の常識からしたら不幸だったんだろうな…。
だけど私は、今は幸せなんだ…。娘がいて、こんな私を理解してくれる職場があって、そして今の私を受け止めてくれる男性がいる…。それでもう十分に幸せだと私は思ってる…」
その言葉を聞いて、僕はようやく、僕自身も救われるような気がした。思いがけず大変な話を聞かされてしまって上手く気持ちに整理が付けられなかったのが、一気に収まった気もした。それを救われたように感じたんだ。
最後に、保木さんは、娘さんを自分の膝に呼び寄せてその頭を撫でながら言ったのだった。
「この子の父親がしたことは人でなしの悪行だったのは事実だ。けれど、血の繋がった親がそういう人間だったからと言って子供が同じようになるとは限らない。私がそうはさせない。人を育てるのは人なんだと私は思ってる…。
この子の父親はロクデナシだが、この子は私の宝物なんだ……」




