三百四十五 千早編 「僕の欲望」
波多野さんのお兄さんの裁判が来週から始まるという以外に特に新しい話題もなく、会合自体はすんなりと終わった。田上さんのことは、以前に聞いてた話の内容を思い出してしまっただけだし。
玲那の事件以降に見聞きしたことの多くが、後になって思い出される状態になってる感じかな。なにしろあの頃はそれどころじゃなかったから。玲那のこと、波多野さんのお兄さんのことに関連して本当にいろんなことを話し合ったはずなのに、それだけ自分に余裕がなかったんだってことを改めて感じた。そういうことなんだろうな。
帰り際、千早ちゃんを連れた星谷さんと、田上さんに見送られて、僕と沙奈子はアパートへと帰った。『また明日ね』って、笑顔で手を振ってくれる千早ちゃんが眩しく思えた。彼女の笑顔が眩しく見えるっていうことは上手くいってるんだろうなって感じる。僕はそれを見届けたいってやっぱり思った。
繋いだ沙奈子の手が温かい。星谷さんが繋いでた千早ちゃんの手もこんな風に温かかったんだろうな。差し伸べた手を握り返してもらえたから、この温かさがあるんだって実感がある。それを思うと、田上さんは弟さんに差し出した手を握り返してもらえてないんだなって……。
千手観音の話を思い返してしまう。千手観音が田上さんの手を通して弟さんに救いの手を差し伸べてるのに、肝心の弟さんの方がそれを拒んでる状態なのか。どうすればそれを握り返してもらえるのか、田上さんは今、試行錯誤してる状態なんだろうな。大学受験もあるっていうのに、子供にそれをやらせてる田上さんのご両親に対しては、すごく残念って気がしてしまう。本当に上手くいかないな……。
アパートに戻ってお風呂が沸く間に、沙奈子は三十三間堂に行ったことを日記に書いてた。
『千手観音様は、みんなを助けるためにたくさんの手を持ってるそうです。わたしにとっての千手観音様の手は、お父さんの手です。千手観音様はいろんな人の手を使ってみんなを助けようとしてるんだと思います。みんながちゃんとその手をつかんでくれたらみんな幸せになれるのにって思いました』
って。
それを見て、この子も僕と同じようなことを考えてるんだっていうのが分かった。
…いや、もしかしたら逆かもしれない。沙奈子の考えてることとか感じてることが、僕に影響を与えてるのかも知れないって気もした。そうだ。人間っていうのはお互いに影響を与え合ってるはずなんだ。大人が一方的に子供を導いてるわけじゃないって、この子と一緒に暮らしてみて僕はすごく感じた。僕がこの子を救ったんじゃなく、僕がこの子に救われたんだともやっぱり思う。
僕の方が大人なんだから沙奈子は僕の言うことを聞いていればいいんだなんて、とても思い上がれない。僕の方が沙奈子に救われてる実感しかないから。なのに、この子は僕のことを慕ってくれてるのが分かる。慕ってもないのに、五年生の女の子が一緒にお風呂に入りたがるなんてないと思うし。この子に慕ってもらえる自分を大切にしないといけないな。こんないい子に慕ってもらえるなんて、すごく名誉なことだって感じるんだ。
だから僕は、この子の信頼に応えられる自分でありたい。世間から見て立派には見えなくても、少なくともこの子から見て信頼できる人間でありたい。そのためには身勝手にルールを破るような大人ではいないようにしよう。うっかり破ってしまった時にはちゃんと『ごめんなさい』が言える大人でいよう。この子の真っ直ぐな視線から目を背けてしまうような大人にはならないようにしよう。改めてそう思った。
今日も一緒にお風呂に入る。この子の僕への信頼をすごく感じる。それに応えたいって素直に思える。それは綺麗事じゃなく、僕の欲求、ううん『欲望』だ。人間は綺麗事だけじゃ動けない。人間は完全に欲を捨てることはできないっていうのは僕にだって分かる。だったら誰かを守りたいっていう気持ちそのものを欲にしてしまえばいいんじゃないかな。その上で、どうすることが守ることになるのかっていうのを考えればいいんじゃないかな。
僕は今、沙奈子を、絵里奈を、玲那を守りたいっていう欲で動いてる。そして、どうすれば沙奈子と絵里奈と玲那を守れるかっていうことを毎日毎日しつこいくらいに考えてる。その結果が、僕たちに関わりのある人みんなが幸せになってほしいっていう願望なんだ。何一つ辛いことのない完璧な人生は無理でも、少なくとも毎日ちょっとした幸せを感じて頑張っていこうって思えるようになれるくらいなら、現実的に不可能なことじゃないって思える。実際、僕たちは今、かなりそれに近いことができてるって気がするんだ。だからこれを守っていきたいと思うんだ。
僕たちは家族が離れ離れになってしまってる。千早ちゃんは壊れてしまった家庭を取り戻す作業の真っ最中、波多野さんはお兄さんの事件に巻き込まれて家庭が滅茶苦茶、田上さんの家庭にはストレスしかない、山仁さんは奥さんを病気で亡くして、それは同時にイチコさんと大希くんがお母さんを亡くしたということ。
こんな大変な中でも、小さな幸せは感じることができてる。それを守ることは、それを守るために力になることは、決して夢物語じゃないと思う。フィクションの中にしか存在できないことじゃないと思う。実際にこの手に掴むことができるものだと思うんだ。それを得ることが、僕の<欲>だ。決して綺麗事じゃない、僕の欲望だ。だってそれ自体が、僕自身のためになるんだから。僕は僕のために、みんなに幸せになってほしい。
そして思う。
『沙奈子、大好きだ』
って。この子のことが好きで、大切にしたいと思える自分を好きでいたい。大切にしたい。誰のためでもなく、僕自身のために。そんな風に考えたら、無理なく他人の幸せも願えるんじゃないかな。
少なくとも僕は、そのおかげで今、千早ちゃんや波多野さんや田上さんや星谷さんやイチコさんや大希くんや山仁さんの幸せを願えるんだ。それどころか、本当に世の中のみんなが幸せになってほしいって素直に思えるんだ。だってそれが僕のためだから。
人間の欲望は底なしだってよく聞く。だったら、みんなに幸せになってほしいっていう僕の欲望だってきっと底なしだ。その欲望を叶えるために、僕はこれからもいろんなことを頭の中で考えるんだと思う。そうしてその中から必要なことを見付け出していくんだと思う。僕がこうやって延々と考えを巡らせるのはそのためなんだ。これは僕の欲望を叶えるために必要なことなんだ。
沙奈子を守って、絵里奈を守って、玲那を守って、そのためにはみんなにも幸せを感じてもらって。それを実現するためのほんのちょっとの力になれればと、僕は単純に思ってるんだ。




