三百四十四 千早編 「子供を生産する工場」
田上さんの家庭では、お母さんが家の全てを取り仕切っていて、他の家族はただの付属品のような扱いらしかった。自分の言うことにさえ従っていればよく、余計なことは考えるな、逆らうなって感じなんだって。
だから、千早ちゃんのところみたいに家事を押し付け合ってるわけじゃなくてお母さんが他の家族に依存もしてないから、アプローチの仕方が分からないらしい。千早ちゃんのところだと、家事を積極的にすることで相対的に家庭内での存在感を上げ、自分に依存させる形に持っていくことができつつあるけど、田上さんのお母さんにはそれが全く通用しなかったから。
かと言って、田上さんのお母さんが自立した女性かって言うとそうでもないみたいだった。いつも『お金がない、お金がない』とぼやいてるのに別に自分でパートに出るでもなく、しかも、田上さんのお父さんは役所の割と偉い人らしいから収入だって本当は悪くないはずなのに、それでも足りないと愚痴ばかりなんだとか。
もちろん、専業主婦だって立派だって僕も思う。専業主婦だから駄目とは言うつもりない。あくまで田上さんのお母さんの問題なんだとは思うんだ。専業主婦として使える時間の余裕を、家族のことをきちんと見るっていうことに使ってないらしいっていう点がちょっとって。
いつも『勉強しろ』って命令するだけでそばで勉強を見てくれるわけでもない、かと思うと自分はランチや買い物に時間とお金を費やして、お父さんの稼ぎを湯水のように使ってるって田上さんが言ってた。それで『お金がない』って言ってるんだから、そういうのは聞かされる方も気分が悪いよね。
一方、お父さんの方は仕事はすごく頑張ってて職場では信頼もされてるらしいんだけど、家に帰るとそれこそただぐうたらしてるだけで子供の顔を見るわけでも話を聞くわけでもないから、やっぱり子供たちからは信頼されてないそうだ。
確かに真面目に働いて必要なお金を稼いでるのは立派でも、だけどそれだけじゃあ、お金さえ持ってきてくれるなら他の人でもいい、それどころか、十分なお金さえ手に入ればお父さんはいなくてもいいってことになってしまわないかな。
父親の居場所がないってよく言われるのは、そういうのも原因なんじゃないかな。家族の顔もろくに見ない、話しも聞かない、ただお金を持って帰ってくるだけの人だったら、言い方は悪いけど『金づる』なのか『家族』なのか、分からなくなってしまう気がする。
家族が多かった昔ならそれでもなんとかフォローできてたのかも知れないけど、家にお父さんとお母さんしかいなかったら、お母さんもお父さんも、子供の顔も見ない話も聞かないじゃ、それって家族って言えるんだろうか。家庭って、『子供を生産する工場』じゃないはずだよね。
なのに田上さんの家庭は、まさにそんな感じになってるみたいだった。だから田上さんも弟さんもそんな状況に嫌気がさしてるらしいんだ。
田上さんが言ってた。
『ここが本当の私の家で、あっちはレンタル家族の仕事に行ってるだけだと思ってる』
って、はっきりと言い切った。僕はそれにものすごい共感を感じてしまった。僕も、実の両親と一緒に暮らしてた頃は、『その家庭の子供という役割を演じてた』だけだったから。
けれど、それでも、田上さんはそう考えるようになってからは随分と楽になったらしかった。こうやってみんなと集まればちゃんと癒されてリラックスできるから、レンタル家族という仕事のストレスをここで解消できるんだとさえ言ってた。すごい考え方だと思った。だけどそうすることでしか、本来の家庭内でのストレスには対抗できなかったんだって。
弟さんがそれでもういろいろ一杯一杯になってるみたいだとも言ってた。田上さんもせめて弟さんはって最近は思えるようになってきたから何とかしてあげたいと思ってるらしいのに、それまでの険悪だった頃のわだかまりがあるからか、差し伸べた手を掴んでもらえてないらしい。弟さんは自分の部屋に閉じこもることが多くなり、食事も自分の部屋に持っていって食べるらしかった。それが引きこもりの前兆なんじゃないかって田上さんは心配してるって。なのにお母さんもお父さんも、ただの反抗期だと思って真剣に考えてる様子がまるでないって。
そんな感じで自分の家がなかなか上手くいってないからこそ、田上さんも千早ちゃんのことは心配してるらしかった。なんとか上手くいってほしいって、そのためには自分も協力するんだって。
子供にそこまで思わせてしまうって、親としては本当に情けないことだと思ってしまった。もし沙奈子がそんなことを考えてるとしたら、僕は自分を許せなくなりそうだ。どうしてこんなことになってしまうのかな。
たぶん、親だって最初から一人前の親だったわけじゃないと思う。自分が沙奈子と一緒に暮らすようになって心底それを感じた。だけど僕は自分に足りない部分を補って、それを教えてくれる人が周りにいたから何とかなったんだ。大人だって経験のないことについては未熟なんだ。それを教え導いてくれる人が必要なんじゃないかって気がする。でないと、未熟なままに分からないことを分からないままにして何となくで適当に誤魔化してしまうんじゃないかな。間違ったことを間違ったままにしてしまうんじゃないかな。そのツケが、後になって返ってくるんじゃないかな。
僕は幸い、たくさんの人に支えてもらったから何とかなってる。でももしそういうのがなかったら、今の僕たちはいなかったと思う。沙奈子とさえ、今でも一緒にいられたか分からない。それどころか、最悪の結末だって絶対になかったとは言えないかも……。
僕はゾッとした。自分がどれだけ幸運に恵まれてたのか分かってしまった気がした。自分の努力だけじゃなく、周りの人たちに助けられているからこうしてられるんだっていうのを改めて感じた。本当に、本当に、感謝しかない。その恩を返したいから、僕は今、こうして千早ちゃんのことも波多野さんのことも、そして田上さんのことも力になりたいって思えるんだ。大したことはできなくても、こうやって一人じゃないってことを伝えたいって思えるんだ。千早ちゃんや波多野さんや田上さんがそれぞれ大変なことや苦しいこととたたかう為の勇気をささえてあげたいって思えるんだ。
はあ…、すごいな。昔の僕が今の僕を見たらどう思うだろう?。全然信じられない、何を言ってるのかも分からないかも知れないな。それくらい、僕は変わってしまった。そして変わってしまったことが嬉しかった。だから今の自分を大切にしたいと思う。すべてのきっかけをくれた沙奈子のことを大切にしたいって、心の底から思うんだ。




