三百四十三 千早編 「それぞれの家庭の事情」
「じゃあ、また来週ね」
絵里奈と玲那にそう言って見送られて、僕と沙奈子は帰りのバスに乗った。沙奈子は疲れたのかバスが走りだしてすぐに眠ってしまった。安心しきった顔で僕に体を預けて、バスの揺れに合わせてゆらゆら揺れてるその姿を見てるだけで顔がゆるんでしまう。自分のことを頼りにして身を任せてくれる人がいるっていうのは嬉しいことだってしみじみ思った。本当に素直に守ってあげたいって思えてくる。
だけどそれは同時に、沙奈子を守るためには自分を大切にしなきゃって思えることでもあるから、結果として自分も守ってもらってることにもなるんだなってまた感じた。
こういうことを何度も何度も確かめることで僕は今の僕を維持してるんだ。そして今の僕を、沙奈子も絵里奈も玲那も頼ってくれている。自然とそれに応えたいと思える。
決して無理はしていない。むしろ僕を頼ろうとしてくれてる沙奈子たちを無視することの方が無理な気がする。必要とされてることが嬉しくて。
そういうのも一種の依存なんだろうなとも思う。ただ、これは決して悪い形の依存じゃないっていう気もする。沙奈子と一緒に暮らし始める前の僕と比べても、今の僕の方がずっと人としてまっとうだと思うし。あくまで昔と比較してでしかなくても、世間一般から見るとまだまだおかしくても、少なくても悪い方向じゃないって思えるんだ。だから僕は今の自分を大切にしたい。悟りきって何もかも達観したつもりになってるだけの無気力で無為に時間を費やすだけの自分には戻りたくない。
色々考えて、考え過ぎて失敗することがあっても、昔の僕よりずっとマシだ。誰よりも自分がそう感じてる。この、ぬくもりと重みを得ることができた自分を大切にしたい。
ぎゅ~っと抱き締めたくなるのを我慢しつつ、僕はバスに揺られてたのだった。
家に戻ると、すぐにいつものスーパーに買い物に行った。夕食はスーパーで買った海鮮ちらしにした。普段買うこともあるお弁当より百円高いからいつもは避けてるけど、今日は何となくちょっぴり贅沢したい気分だった。沙奈子たちを守ってあげられてる自分と、僕を守ってくれてる沙奈子へのご褒美って感じかもしれない。
「だいじょうぶ…?」
いつもより高いものを選んだ僕に彼女がそう聞いてきた。う~ん、すでに主婦感覚が身に着いてきてるのかなあ。いい奥さんになれるかな。
「たまには、ね」
沙奈子の心配も尊重しつつ、いつもの買い物はこの子に任せっきりだから今日だけ特別ってことで。
買い物を終えて家に帰って海鮮ちらしを二人で食べて、絵里奈と玲那はコンビニの焼きうどんを食べて、山仁さんのところに顔を出しに行った。すると星谷さんが、
「いよいよ来週から、カナのお兄さんの裁判員裁判が始まります。できることはしてきたつもりですが、私が紹介した弁護士は解任されてしまって、正直、どうなるか全く先が読めません。初犯であることと、カナに対する婦女暴行未遂以外には余罪が出てきませんでしたが、相変わらず強姦容疑については被害女性の合意があったとの主張の一点張りで反省の色がまるで見えず、心証は非常に悪いです。この辺りがどう判断されるか、こちらとしては見守るしかありません」
と簡潔に説明してくれた。
するとやっぱり波多野さんは憮然とした様子で、
「あ~もう、毎度言ってる気がするけどメンドクセ。とっとと終わってとっとと刑務所行っちゃってください。以上!」
だって。何て言っていいのか分からなくて、僕とイチコさんと田上さんは曖昧な笑顔しか浮かべることができなかった。僕からは見えなかったけど絵里奈と玲那も同じだったんだじゃないかな。山仁さんは腕を組んで目を瞑って黙ってたし、星谷さんは冷静な様子で、だけど決して波多野さんを非難するとか不快そうに見るとかじゃない目で見てた。見守る感じっていう印象があった。
本当に、毎回思い知らされる。事件を起こすと、周囲はこんなに大変なんだって。本人は自業自得でも、周りもとんでもなく影響を受けるって。
ただ、僕は、波多野さんについては本当に可哀想だと思いつつも、波多野さんのご両親に対してはあまり同情できないっていうのが正直あった。自分が沙奈子と一緒に暮らしてみて感じたんだ。僕はあの子が何か不穏なことを考えてたりしたらたぶん気が付く。あの子の顔をいつも見て、あの子の様子をいつも見てるから、何を考えてるかまでははっきり分からなくても『何かおかしい』っていう風には感じると思うんだ。
それと比べると、波多野さんのご両親は、お兄さんが幼い頃の波多野さんに対してやった酷いことをきちんと『それは良くないことだ』って教えることをせずに放置してきたことのツケが返ってきただけなんじゃないかって気がしてしまって。
人間は簡単には変わらない。と言うことは、お兄さんが見ず知らずの女性をレイプするような人になってしまったのは、つい最近のことじゃないはずだ。ずっと以前からそういう片鱗を見せてきてたんじゃないのかな。少なくとも波多野さんはそれを感じ取ってた。だけど、波多野さんの家庭での彼女の発言権は無いも同然のものだったらしい。ご両親は彼女が何を言っても耳も貸してくれずに、表向きは好青年っぽく振る舞ってるお兄さんの表の顔だけを見て満足してただけなんだって。
もちろんそれは波多野さんから見た印象っていうだけだからどこまで正確なのかは分からない。ただ、子供が両親を全く信用できない、当てにできない、頼りにならない、役に立たないと感じてしまうっていうのはやっぱりおかしいと思うんだ。そういう部分では、僕も自分の両親に対して同じように感じてたからすごく分かる気がする。しかもそれは、田上さんも同じらしい。今はまだ辛うじて事件にまでは至ってないけど、家庭内で何が起こっても不思議じゃないって田上さんは感じてるそうだ。
田上さんの家ではお母さんが絶対君主のようにすべてを決めて、家族の異論は一切認めないらしい。お父さんはそれに対して諦めきってるのか何も言わないってことだった。そんなお父さんのことをお母さんは、田上さんや彼女の弟さんの前で平気で『大した稼ぎもないATMの世話してあげてるんですから、私の言うことに従うのは当然よ』とか言ったりするらしかった。
そのせいか、弟さんは最近、かなり反抗的になってきているらしい。田上さんはこうやってみんなに癒してもらってるから受け流すことができてるけど、弟さんにはそういう存在がいないらしくて。
残念なことに田上さんと弟さんの仲は、イチコさんたちと出会って彼女が癒されるようになるずっと以前から険悪で、イチコさんたちのおかげでまだ精神的に安定できてる田上さんの救いの手も届かない状態らしかった。
本当、どうしてみんなこんなにわざわざ不幸になろうとしてるのかなあ……。




