三百四十二 千早編 「千手観音」
千手観音は、一切の衆生を漏らさず救う菩薩だって言われてたんだっけか。もしそれが本当なら、今、この瞬間、苦しんでる子供たちを、ううん、全ての人たちを救ってあげてほしいって思ってしまう。
だけど現実にはそうじゃない。以前の僕ならそれをおかしいと思ってしまってたと思う。そんな綺麗事で信仰を集めようとするとかふざけてるくらいに思ってしまってたかもしれない。だけど今は少し違ってた。これは、誰かを助けたいと思う人間の気持ちそのものを現してるんだっていう気がするんだ。『一切の衆生を救う』というのは、どんな人にも、その人のことを救ってあげたい、力になってあげたいと考えてる人が必ずいるっていう意味なんじゃないかって今は思うんだ。
仏教の教えとしてその解釈が正しいのかは僕は知らない。だけどそう考えた方が僕にとっては納得できるのも間違いなかった。この千手観音の手の一つとして、沙奈子のことを、絵里奈のことを、玲那のことを守りたいっていう僕の気持ちがあるんだって思えば分かる気がした。そして、千早ちゃんに差しのべられた手として、星谷さんがいる。それは結果として、千早ちゃんのお姉さんたちやお母さんのことも救う形になるのかも知れない。もしそうでなくても、少なくとも千早ちゃんは今、お姉さんたちやお母さんを救うための手を差し出してるんじゃないかな。
その手が届くことが、千早ちゃん自身も救うことになるのかも。
でも、千早ちゃんが差し出す救いの手が、美味しい手作り料理だっていうのはなんだかおもしろいなっていう気もした。
そして僕は今、玲那と手を繋いでる。これも一つの千手観音の手ってことになるのかな。僕から玲那へのだけじゃなく、玲那から僕へ差し出された救いの手っていう気もする。だってこの子の為にも僕は頑張らなきゃいけないって思えるし。
自分に差し伸べられた救いの手に気付けたら、もっと多くの人が幸せになれるのかな……。
ついついそんなことを考えてしまう。あんまり大きく考えても僕にそれができるわけじゃないのに。
沙奈子と絵里奈は、人形を見てた時と同じように、一体一体、仏像を丁寧に見てた。何か惹かれるものがあるらしい。ただその間、玲那は僕を独り占めできるからそういう意味で嬉しかったみたいだ。
でも玲那の甘え方は、やっぱり絵里奈のそれとはどこか違う気もする。僕がそんな風に思ってるだけかも知れないけど、娘が父親に甘えてるだけっていう感じしかしないんだよね。沙奈子が僕に甘えてくるのと同じなんだ。何でそれが分かるのかって言われるとうまく説明できないけど、違うってことだけはとにかく分かるとしか言いようがない。娘と仲がいいお父さんだったら分かるのかな、この感じ。
僕の印象だけで言うと、前にも言ったとおり、フェロモンみたいなものが出てるか出てないかの違いなのかな。だから僕も安心してそれを受け入れられる。
もしこれが絵里奈から感じるものと同じだったら、たぶん僕は困ってしまってただろうな。それを受け入れることができなくて。
なんて、仏像の前でそんなこと考えてていいんだろうかと思ったり。
それでも、じっくりと仏像を見てる沙奈子と絵里奈の後を、玲那の気配を感じながらゆっくりとついて行くのも悪くなかった。この子が生きてるんだなっていうのを実感できる感じで。
確実に一時間以上かけて仏像を堪能して、二人はなんだかうっとりしてるみたいに見えた。さすがに僕や玲那にはついていけないけど、二人が満足してくれたのならそれでいいや。
三十三間堂を後にしてバス停に戻る途中で喫茶店に入ってお茶にする。僕と玲那はアイスコーヒー、沙奈子と絵里奈はレモネードを頼み、また仏像の話で盛り上がってた。だから僕は玲那とやり取りした。
『なんか今日はお父さんにいっぱい甘えられてよかった』
だって。やっぱり玲那としても甘えたかったからなんだなって思った。
『先週は会えなかったからね。それにこれくらいならお安い御用だよ』
僕がそう返すと、玲那は嬉しそうに頬を赤くして微笑んでた。その姿がまた子供みたいで、彼女の本質がそこにあるように思えた。
そうなんだよな。体は大人でも、四人の中では誰よりも経験自体は濃密でも、この子の中身はまだまだ小さな女の子なんだ。たくさん苦しんで傷付けられた頃から時間が止まってしまっているんだ。だから絵里奈とは違うんだ。そういうのをちゃんと理解してあげたい。知識や経験と、この子の本質とのアンバランスさを、他の誰が理解してくれなくても、僕だけは、僕たちだけは理解してあげたい。
この子を守りたいという僕たちの手が届くように。その手を、この子が受け入れられるように。
相手が望んでない形では、いくら助けてあげたいと意気込んでも、かえって反発してしまう場合があると思う。迷惑に感じてしまう場合があると思う。それじゃ届かないんじゃないかな。助けに見えないんじゃないかな。どんな人にも助けてあげたいと思ってくれてる人はいるかもしれないけど、本人にとってそう見えなかったらいくら救いの手が伸ばされてても、それを掴みにくい気がする。
僕は、沙奈子や絵里奈や玲那がそういう形で零れ落ちてしまうのは嫌だ。一切の衆生を救うという千手観音を見て、改めてそう思った。大切な人を守りたいと思う気持ちが千手観音の手だとするなら、確実にそれが届くように努力したい。そのためには、どうすればそれが届くのかっていうのをよく考えたい。
『僕は、玲那のことを助けてあげられてるかな?』
今度は僕からそうメッセージを送った。それを見た玲那が、スマホを抱き締めるようにして頷いてくれた。
『お父さんはちゃんと、私が辛いこととたたかうための勇気をささえてくれてるよ。
だから私は負けない。諦めない。お父さんと沙奈子ちゃんと絵里奈とで生きていくんだ。
胸を張って最期を迎えられるその日まで』
この子にとっては、死ぬよりも生きてることの方がずっと辛かった時期がきっとあったんだと思う。それを生き延びられたのは本当にたまたまだったかも知れない。死を選ぶタイミングがなかっただけかも知れない。それでも生き延びてくれたんだから、これからは『たまたま死ねなかった』じゃなくて、生きようと思って生きられるようにしてあげたい。
人間だから、いつかは命の終わりがくる。それが何十年後になるとしても、そのこと自体は誰にも変えられない決定事項なんだ。僅か半月の命の期限を回避して生き延びられたチャーたちだって、無限に生きられるわけじゃない。だったら、同じ最期を迎えるにしたって、胸を張って『精一杯生きた』って言いながらその時を迎えたい。
たぶん、仏教の教えって、本質的にはそういうことなんじゃないかな。
こうしてみんなで三十三間堂に行って、僕は何となくそう感じたのだった。




