三百四十 千早編 「暴力の連鎖」
土曜日。今日は千早ちゃんたちがまたカレーを作りたいということだった。家でもカレーを作りたいから念の為に、改めて作り方を確かめたいんだって。その熱心さに感心するばっかりだ。
いつものように沙奈子の午前の勉強が終わって少しすると、星谷さんに連れられて千早ちゃんと大希くんが来た。
すっかり習慣になったらしい、沙奈子に抱き付いてほっぺたすりすりの後で、三人はさっそくカレーを作り始めた。するとその時、ビデオ通話の画面の向こうから絵里奈が言った。
「カレーは二日目が美味しいってよく言われるからついついたくさん作って二日目以降もって思ってしまいがちだけど、作り置きはどうしても食中毒の危険性も高くなります。皆さんはそういうことの管理がしっかりできるようになるまでは、一日で食べ切れる量だけを作るように心掛けてください。分かりましたか?」
「は~い!」
絵里奈から直接指導を受けてきた沙奈子はもちろん、千早ちゃんと大希くんもすごく素直に応えてくれてた。そうだよね。せっかく美味しいものを食べて幸せな気分になりたいって思ってるのに食中毒とかなんてイヤだし。そういうのをきちんと分かっておくのも大事なんだと思った。
そうして三人がカレーを作ってる間、それを見守りながらも僕と玲那と星谷さんはまたいろいろ話をしてた。今回はフリマサイトでのことだった。と言っても、玲那はフリマサイトの管理作業をしながらだったから、あまり話に集中はできてなかったけど。
今は、品物を発送するための梱包をしてるところだった。話すことができない玲那は、作業中は作業に集中するしかできなかった。僕と星谷さんは子供たちの作業を見守りつつ玲那の作業も見る状態になった。
玲那はとても丁寧に作業してるのが分かった。何度も何度も指差し確認しながら品物を包んでいく。そうして梱包した品物に発送用のラベルを貼り付けて完了だ。
すごく丁寧にやってるから時間もかかる。それでも、まずはミスがないことを目指してるんだっていうのが見えた。そうだ。千早ちゃんも、料理でミスをして味が落ちないようにまたこうやって作り方を確認しようとしてるんだ。自分のすることにしっかりと責任を持とうとする姿勢だと感じた。すごいなあ。
「明るくてノリが良さそうに見えても実は生真面目な玲那さんの人柄が見えますね」
星谷さんが感心したみたいにそう呟いた。続けて、
「千早も玲那さんと同じです。彼女はすっかり明るくなったので、少しお調子者っぽく見られがちですが、うっかり者の一面もありながらも根は真面目で熱心な性格なんです。その彼女の性格をうまく活かしてあげることが今の私の役目だと感じています」
と話す星谷さんの表情が、どこか『お母さん』っていう感じがした気がした。たぶん、実のお母さんよりもずっとお母さんしてるんだろうなっていう気もした。千早ちゃんは星谷さんと出会えて本当に幸運だったんじゃないかな。千早ちゃんのお姉さんの千歳さんと千晶さんも、もっと言えばお母さんも、星谷さんみたいな人と出会えていればあんなことになってなかったのかも知れない。そういうたらればを言っても仕方ないのは分かってても、どうしてもそう思ってしまう。
だからこそ、実際に星谷さんと出会えた千早ちゃんのことは応援したい。それに、千早ちゃんが頑張ってることで家庭そのものの雰囲気も変わってるんなら、それでいいんじゃないかなとも思えるし。
星谷さんが言ってた。千歳さんは、お母さんに叩かれたことが原因で左の耳が聞こえにくいって話を周りの人にしてたって。学校での聴力検査の時にそれが分かったって。学校には原因不明って言ってたらしいけど、千歳さん自身はお母さんに思い切り叩かれた時からおかしくなったと周りには話してたって……。
それはもう、完全には治らないらしい。そうやって千歳さんはハンデを抱えてこれからも生きていかなきゃならないんだと思うと、僕は胸が苦しくなるのを感じた。叩いたりしなければそんなことにはならなかったはずなのにと思うと、千早ちゃんや千歳さんのお母さんに対して怒りさえ込み上げてくる。だけどそのお母さん自身が、同じように虐待を受けてきたってことも分かってる。自分がそんな風にされてきても死んだりしなかったから、このくらいだったら大丈夫っていう歪んだ基準が出来上がってしまったんだろうなっていうのも感じてた。
虐待で命を落とさなかったのはたまたま運が良かっただけかもしれないのに、『このくらいだったら大丈夫』っていう思い込みを作ってしまうのが人を殴ることの怖さだと僕は思った。自分は大丈夫でも、他人も大丈夫っていう保証は何もないのに……。
ニュースで流れてくる、虐待で子供が亡くなる事件も、結局はそういうのもあるんじゃないかなって僕は思うんだ。虐待をする人が元々そういうことをされてきたから、『このくらいだったら大丈夫』って思ってしまうんじゃないかって……。
だけどそうじゃない。その『大丈夫』は大丈夫じゃないんだ。千早ちゃんと千歳さんのお母さんも、本人は手加減をしてたつもりなのかも知れない。だけどそれは何の根拠もない基準なんじゃないかな。だから千歳さんの耳は聞こえにくくなってしまった。そしてそれはもう治ることはない……。
罪深い…。罪深いよ…。自分勝手な基準でそういうことをしたことで、取り返しのつかないことになってしまった。命さえ助かったんならそれでいいってわけじゃない。左耳が聞こえにくいというのは、千歳さんのこれからの人生にどれだけの影響を与えることになるんだろうって思うと、たまらない気分になる。そしてもし、ここで千歳さんがそれを良くないことだって思えなかったら、お母さんに叩かれたことを『このくらいだったら大丈夫』って思ってしまったら、千歳さんはまた、他の誰かに対してお母さんと同じことをしてしまうんじゃないかな。
…いや、実際にしてきたのか。千早ちゃんや、転校前に通ってた小学校のクラスメイトの子に対して。しかもそれを躾だと思い込んで。
なんて怖いことなんだろう。そうやって暴力が連鎖していくんだ。だから千歳さんが躾のつもりでイジメてたクラスメイトの女の子はそれに耐えきれなくなってカッターナイフを振り回して、別のクラスメイトの女の子の顔に一生消えない傷を負わせた。しかもその傷を受けた女の子は、逆にイジメを受けて学校を転々としたっていう……。
こんな不幸、ありえないよ。みんなが不幸にしかならないじゃないか。そんなの、辛すぎる……。
だからこそ、千早ちゃんはその連鎖から解放されるべきなんだと思う。ギスギスとイライラに包まれた中から解放されて、笑顔でいられるようになるべきなんだと思う。
「できたよ~」
カレーが出来上がって、笑顔で鍋を持ってきた千早ちゃんを見て、僕は心の底から思ったのだった。




