三百三十五 千早編 「千早ちゃんのヒーロー」
日曜日。今日はまた特に何をするでもない普通の日だった。お昼は再度スパゲティカルボナーラに挑戦するそうだ。と言うのも、千早ちゃんが家でも作ってみたけど何かしっくりこなかったらしいので、もう一度練習したいということらしい。熱心だなあ。
あと最近、千早ちゃんの口ぶりと言うか振る舞いが、お姉さんと慕ってる星谷さんじゃなくて何故か波多野さんに似てきてる気がする。玲那にも似てるかなって思ってたんだけど、普段身近にいて、しかも性格が近いから似てきてしまったのかもしれない。ちょっと口が悪い感じになってきてる気もする。
ただ、千早ちゃんは元々口が悪かったらしい。沙奈子にきつく当たってた頃は特に乱暴な言い方で、しかも明らかに相手を傷付けようという意図が込められた皮肉や嫌味が多かったっていう話だった。そしてそれは、実のお姉さんたちの口調そのものだった。それが星谷さんをお姉さんと慕うようになった頃には少し丁寧な言葉になってたんだけど、それがまた砕けたものになってきたんだって。
けれど今のそれは、笑顔が可愛らしいからか、意外と嫌な感じはしなかった。あと、僕が見る限りでは悪意を感じないからかな。陰険とか陰湿っていうのじゃなくて、カラッとしてて気さくっていう印象だった。
午前の勉強が終わってしばらくして、千早ちゃんたちがやってきた。
「沙奈ちゃ~ん!、ふにふにのプニプニ~!」
「おじゃまします!」と元気よく挨拶して部屋に上がるなりまた沙奈子に抱き付いてほっぺたをスリスリして、お気に入りのアニメの真似をする。もう見慣れた光景だ。それから三人でスパゲティカルボナーラを作り始めたけど、その時の口調がやっぱり乱暴と言うか遠慮がない感じだと思った。沙奈子に対してはそれほどでもない気もしたけど、大希くんに対してとくに容赦がない感じと言うか。
大希くんが手順を間違えたら、
「ちょ、ヒロ、そうじゃないって!」
とか、かと思うと自分が失敗した時には、
「おっと、わりーわりー!」
とか。
いつの間にか大希くんのことを『ヒロ』って呼ぶようにもなってたらしい。特に5年生に上がったのをきっかけにしたみたいに変わってきたみたいだった。でもそれに対して星谷さんが言う。
「千早がようやく私のことを本当に信頼するようになってくれたからだと思います」
だって。そして、
「これまでは、私に気に入られようとして猫を被っていたんです。いい子になろうとしていたんだと思います。本来の彼女は、荒んだ家庭環境の影響で他人を傷付けることに対して躊躇いがない子供でした。それを当たり前だと思っていたんです。いえ、実際に彼女の家ではそれが当たり前でした。彼女の母親も姉も、他人を威圧して自分の力を見せ付けて圧倒することで従わせるというのが正しい方法だと思い込んでいたのですから。
けれど、私が暴力や威圧ではなく、言い方は悪いですが口車で千早のお姉さんの千歳さんをやり込めたのを見て、彼女は暴力や威圧とは違うやり方もあるというのを知ったようです。その上、彼女は、アプリ一つで警備会社すら操る私の大きな力に縋ろうとしたんです。そのためには私を味方につけないといけないと、私に気に入られないといけないと思ったようです。
千早が私を姉のように慕っているというのは事実でしょう。しかしその気持ちの裏側には、母や姉に対抗しうる『力』への憧れもあったのだと思います。
だけど私は、千早にそういうものに頼る人になってほしくはありませんでした。それは私がかつて通った道だからです。大きな力を後ろ盾にして他人を操り、自分の思う通りにする…。完全に独裁者の発想でした。しかも千早が私の力を当てにするということは、紛れもなく『虎の威を借る狐』のそれです。人として恥ずかしい振る舞いだと私は思いました。だから私は、千早の望むように彼女のお母さんやお姉さんを痛めつけるような真似は決してするまいと誓いました。
もし、私がそれをしてしまっては、彼女は一生、他人の持つ大きな力を当てにしてそれを笠に着る卑劣な人間になってしまうかも知れない。それが彼女にとって良いことだとは思えなかったのです。
しかし千早は、そんな私に対して不信感を覚えたこともありました。口では綺麗事を並べながら横暴な母親や姉を見逃す偽善者だと感じたこともあるようです。確かに私のしていることは偽善かも知れません。手っ取り早く彼女を救い、罪人たる彼女の母や姉に懲罰を与えるのが彼女や世間の望む正義なのかも知れません。
でも私は思うんです。この世にヒーローなんていません。いかなる悪意にも屈しない、いかなる力にも屈しない絶対の存在なんていないんです。そんなものを当てにしてそれが救ってくれることを期待してただ待っているだけでは自分の状況は変えられない。ヒーローが現れない現実に打ちのめされ、理不尽を恨み、他人の幸せを妬む浅ましい人間になってしまうだけだと思うんです。
私は、千早にそうなってほしくなかった。私が危うく辿りそうになった道を辿って欲しくなかった。だから彼女自身が変わることを、彼女自身が変われるために私にできることをしようと誓いました。すべての悪を見る間に罰して鬱憤を晴らしてくれるヒーローはいなくても、千早のことを守ろうと考える人はいるのだと知ってもらおうと考えました。私が千早にとってのそういう存在になろうと思いました。彼女が泣きたいと思えば気のすむまで泣ける場所を、どうしても耐えられなくて逃げたいと思えば逃げ込める場所を提供できる存在であろうと思いました。
都合よく悪を打ち倒すヒーローはいなくても、そのくらいなら普通の人間でもできるはずです。そしてそういう場所があれば、人は苦しみにも耐えていけると私は考えています。何故なら、今、私自身がそれを実感しているからです。イチコとヒロ坊の存在が、私を支えてくれているからです。私が感じてるそれを、千早にも感じてほしい。私はそう考えてこれまでやってきました。
彼女にとっての都合の良いヒーローにはなれなかったことで、彼女からは不信感も抱かれました。けれどそれでも私の持つ力は彼女にとっては必要で、そのために千早は私に媚びを売り気に入られようと猫を被っていました。それがようやく、不要なものだと気付き始めてくれたようです。千早が私にとって都合のいい『良い子』でなくても、私に媚びへつらう浅ましい人形でなくても、決して見捨てたりしないということをようやく実感してきてくれたようです。
近頃の彼女は確かに世間から見れば行儀の悪い品のない子供に見えるかも知れません。でも彼女はもう、他人を傷付けることで自分のストレスを解消しようとするような危険な存在ではないんです。私はそれを信じています」
と、星谷さんは一気に自分の想いを語ってくれたのだった。




