三百二十八 千早編 「言いにくいけど大事なこと」
会合の方はやっぱり目新しいことは何もなく、波多野さんも明るく振る舞ってる感じだったからホッとして、30分ほどで終わった。田上さんがいなかったけど、それは塾に行ってるかららしい。
帰り際、星谷さんに連れられた千早ちゃんがちゃんと笑顔なのを確認して、「また明日」って僕と沙奈子はアパートへと帰った。
その途中、沙奈子の手をちょっとだけ強く握ったら僕の方を見た彼女に、
「大好きだよ」
って声を掛けた。そしたら沙奈子の顔がふわっと赤くなってうつむいて、「…うん」って小さく応えてくれた。『おかえりなさいのぎゅー』のお礼も兼ねてたけど、僕の本心だった。今はこの子と出会えた幸運に素直に感謝したかった。毎日毎日感謝してる上にも何度でも感謝したかった。
沙奈子、ありがとう。
火曜日から金曜日まで、今週も平穏に過ごすことができた。そのことにも感謝したいと思う。もちろんいろいろな問題は残されてるとしても、そんな中でも平穏に過ごすことはできるっていうのを教えてもらってる気もする。
人生は楽じゃない。理不尽なことも多い。不条理に打ちのめされることもある。だけど同時にちゃんと幸せを掴むチャンスだって用意されてる。僕の場合だってものすごく分かりにくいチャンスだった。『こんな面倒臭いことには関わりたくない』と沙奈子を施設に預けてしまったりしてたら掴めないチャンスだった。それを掴めた自分を褒めたいって思ったりする。
そして土曜日。今日は、休日参観の日だ。沙奈子はいつもの時間に学校に向かって、僕は時間が来るまで家で待機することになる。その間、ビデオ通話で絵里奈や玲那と話をした。すると玲那が、沙奈子がいる時には決してできないような話を振ってきた。絵里奈とのデートもままならないっていう話の流れで、
『ね~、そろそろ二人とも我慢できなくなってきてたりしてない?』
ニヤァっていう本当にイヤらしい笑い方をしてたからすぐにピンときてしまった。絵里奈の顔が一瞬で真っ赤になる。僕も顔が熱くなるのを感じてた。僕たちのそういう反応を楽しんでるんだって分かる。ただそれは、少なくないヤキモチも込められたものだっていうのも感じてた。僕のことを『お父さんとして好き。だけどそれと同時に男性としても好き』みたいなことを言ってくれた玲那の正直な気持ちだと思った。ちょっと意地悪したいんだろうなって。
ただその一方で、夫婦としての僕たちのことを気遣ってくれてるんだってことも感じる。幸い僕は絵里奈以外の女性に対しては相変わらず関心がなかった。絵里奈とのことで女性に対する関心が芽生えてしまったかなと思った矢先に玲那の事件が起こったからそれどころじゃなくなってしまったのもあるかもしれない。沙奈子と絵里奈と玲那のことを考えるので手一杯で、他の女性のことまで気が回らないっていうのもありそうだ。
波多野さんのことを気にしてるのは完全に大事な知人としてだし、余裕もなくてすっかり忘れてたっていうのもあった。
『で~?、本当のところはどうなのさ?。ん?、お父さ~ん?』
ますます悪い顔をして、玲那が画面いっぱいに迫ってくる。ああもう、困った娘だな!!。分かったよ!、白状するよ!。
「たまにトイレで始末したりはするよ…」
僕がそう言った瞬間の玲那の顔は、本当に漫画みたいだと思った。さっきの絵里奈以上に一瞬で真っ赤になって、でもものすごい悪い顔で笑ってた。
『まさかホントに白状するとは思ってなかったけど、やっぱりそうなんだ~!』
って、言わせておいてそれはないだろ!。
さすがにムッとした顔になったのが自分でも分かった。すると玲那は今度は急に真面目な顔になった。
『ごめんごめん。ちょっとふざけ過ぎた。
だけど、これって大事なことだと思うんだ。
だから真面目な話として答えてほしいの。
自分でする時、誰のこと考えてする?。それとも本とか使うの?』
とんでもない質問だったけど、玲那がすごく真面目な顔をしてたから僕も真面目に答えた。
「絵里奈のことを思い浮かべてる…」
僕がそう言うと、今度はフッと安心したみたいに笑った気がした。その上で、
『本当?』
って聞いてきたから、「本当」って答えた。本当に本当のことだった。絵里奈とのことを思い出して、たまにトイレで自分でしてた。一ヶ月に一回あるかないかくらいだけど。
『そっか、良かった…』
は~っと大きく息を吐きながら玲那がそうメッセージを送ってきた。
『私、男の人がそういうの我慢できないってことはよく知ってるから。
だから心配してたんだ。お父さんが他の女の人に誘惑されたりしないかって。
お父さんのことは信じてるけど、頭で考えてるのと欲求とは別だっていうのも知ってる。
だけどお父さんはやっぱりお父さんなんだね。
前にお風呂に一緒に入った時に分かった。
お父さん、そういう部分では、奥手どころかちょっとおかしいって。たぶん病的なくらいに欠落してるって。
それ自体は逆に安心感があったんだけど、絵里奈と結婚して夫婦としてやっていけるのかって心配もあったんだ。
それが、絵里奈とだったらちゃんとできたのが分かってホッとしてた。
なのにこんな風に別々に暮らすことになってデートもできなくて、そのことが気になってて。
でも改めて確認できてよかった。お父さんはまだ、絵里奈でないとダメなんだね』
そうか、それで。
玲那の心配も当然だと思った。世間一般で言えば新婚ほやほやだった僕と絵里奈がこうして別居状態になってしまったら、どうしてもそういう部分でのすれ違いも出てくると思う。特に男性の場合は性的な欲求が強い傾向にあるだろうから、ついつい他の女性に目がいってしまって、というのもない話じゃないんだろう。
ただ、僕の場合は、元々そういう欲求が極端に低くて、いわゆる『草食系男子』って呼ばれる状態だっただろうから、そんなことを考える暇もなかったことも手伝ってまったく気にならなかった。いわゆる『ムラムラ』してる状態の時があっても、それは絵里奈とのことを思い出してしまってそれでって感じだったし。
『しかし、絵里奈とのことを思い出して抜くとか、まるで中学生ですな』
イシシシシって感じでまた悪い顔で笑った玲那がそういうメッセージを送ってくる。その後ろでは、顔を真っ赤にして焦った感じの絵里奈が、
「もう!、いい加減にして、玲那!」
と声を上げていた。なのに玲那はそんな絵里奈にとりあおうともせず、今度は、
『絵里奈は私がいるから大丈夫だよ。ちゃんと満足させてるから』
だって。
そのメッセージに、絵里奈は顔を覆って俯いて、僕もまた顔が熱くなるのを感じてしまった。さすがに想像してしまって……。
二人がそういう関係だったことは絵里奈からも聞いてたし別に驚かない。むしろ、そうやってお互いを癒すことができるのなら助かるなとさえ僕は思ってたのだった。




