三百二十七 千早編 「僕たちのあざとさ」
沙奈子の手作りハンバーグを食べた後、僕たちはいつものように山仁さんの家に行った。今日も単に顔を合わせるだけで終わったけど、それがむしろ良かった。波多野さんも落ち着いてるし、千早ちゃんも笑ってるし。
家に帰ってお風呂に入る。二人でとろけたお餅みたいになって寛ぐ。こういう時はあれこれ考えなくてもいいんじゃないかなって思ったりもする。なのにやっぱり考えちゃうのは僕の悪い癖なのかなあ。
千早ちゃんは今頃、家でドリアを作ってあげてるのかな。上手に作れて、お姉さんたちに『美味しい』って言ってもらえたらいいな。
お風呂から上がって、沙奈子は僕の膝の上で服作り。僕は玲那とおしゃべりだ。次の土曜日のオフ会のことで秋嶋さんたちと盛り上がってる玲那の姿を見る。もうこの子の表情を見落としたくないって思いながら。
だけど今はとにかく楽しそうな表情しかない。それが何よりだった。
それでも不意打ちのように挟んでくる『お父さん大好き』とか『愛してる』っていうメッセージは、この子が抱えてる不安の裏返しのように思えて、僕はちゃんとそれに応えてあげることを心掛けた。事件を起こしてしまったこと、自分の過去、そういうものがどういう風に影響してるのかっていうのがどうしても不安なんだろうなって。
そういう不安に気付かないふりをして、面倒臭いからって無視して、放っておいたらどんなことになるのか、考えるのも怖い。
僕は弱い。だから玲那にも強くなれなんてとても言えない。不安があるなら、助けてほしいことがあるなら、無理しないで言ってほしい。僕にも一緒に支えさせてほしい。そういうことを正直に口に出来るような存在でありたい。
そうだ。沙奈子が千早ちゃんのことばかり僕が聞くのにヤキモチを妬いてしまった時に『千早ちゃんのこと気になる?』みたいな感じで言葉にしたのだって、それを聞いても大丈夫だって思ってくれてたからだと思う。本当ならそこで『ヤキモチ妬いてる』ってはっきり言葉にしてもらえたらもっと分かりやすかったけど、沙奈子自身、そういう感情についてまだよく分かってないのかも知れないから仕方ないって気もしてる。その辺りの細かいことに拘るより、思ってることを素直に言える方が大事かなって。
以前は、他人のこととか考えるなんて、他人の気持ちを考えるなんてありえないと思ってた。僕の気持ちとか考えてくれない他人の気持ちを考えるとかおかしいだろって思ってた。だけど今は逆に、考えないようにすることができなくなってる。沙奈子や絵里奈や玲那の気持ちを考えないっていうのができなくなってる。それはたぶん、沙奈子や絵里奈や玲那が僕の気持ちを考えてくれてるのが分かるからっていう気もする。だから僕も考えたい。
どっちが先に考え始めたのかはもう分らないしどっちでもいい。とにかく今、沙奈子や絵里奈や玲那が僕のことを考えてくれてるのが伝わるから僕も考えたいって思ってる。そうすることが嬉しいんだ。以前にも思ったけど、これは、沙奈子が来る前の僕が何も考えないようにしてきたことの反動だっていう気がする。本来の僕はこういうことを延々と考えてしまう人間だったのに、考えることで自分が幸せじゃないことを思い知らされるのが嫌で考えないようにしてたんだなって改めて思う。
僕しか頼る相手がいなかった沙奈子はともかく、絵里奈や玲那はよくこんな面倒臭い人間のことを好きになってくれたなって思ったりもしてしまう。それだけで感謝の気持ちでいっぱいになる。だからその恩を返したいって思えるっていうのもあるのかな。
って、結局また、沙奈子と一緒に寝る時まで延々と考えてた僕なのだった。
月曜日。朝。いつもの一週間が始まる。会社に行くと何も考えないようにするから、帰ってくると反動でついついっていうのも今はあるのかな。まあその辺はどうでもいいか。今週もただ無事に乗り切れればそれでいい。
「いってきます」
「いってらっしゃ」
四人でそのやり取りをして、僕は会社へと向かい。バスに揺られながら心を閉ざした。果たしてこれが正しいことなのかどうか、それすら考えない。今の僕はただのロボット。与えられた役目をこなすだけの単なる機械。機械は何も考えない。
ってしてると、気が付いたらもう帰りのバスの中だったりする。ほとんど意識失ってるみたいな、寝てたみたいな時間の経ち方だな。自分でも気味が悪い。こんなことをいつまで続けることになるんだろう。僕が辞めさせられる理由はないってことで意固地になってるだけなんじゃないかっていう風にも思うけど、やっぱり納得できないものは納得できないんだよな。僕は会社と戦うつもりはなくても、せめてもの意地ってことかも知れないってまた思う。
ホント、何やってんだろ。
でもまあ、お金は必要だしね。確実にすぐ転職できる当てもないし。行けるところまで行くということで納得するしかないか。
山仁さんの家に沙奈子を迎えに行って子供たちの「おかえりなさい」に癒される。すると沙奈子が、突然、僕に抱き付いてきた。何事?って思ったけど、千早ちゃんや大希くんはただニコニコして見守ってるだけだった。
「おかえりなさいのぎゅーは大事だって、千早ちゃんと大希くんが…」
僕の胸に顔をうずめたままで、沙奈子がそう言った。その沙奈子を、僕も抱き締めた。千早ちゃんと大希くんの前で。
「ありがとう…。すっごくホッとする。お仕事がんばって良かったって思う。だから明日も頑張ろうって思える……」
今でも表情を上手く作れなさそうにしてる彼女だけど、心まで凍ってしまってるわけじゃないってのがすごく分かる。こうやって僕たちの前ではちゃんと自分の気持ちを表してくれる。
世間ではこの子がするこういう行動とかを『あざとい』とか言ったりするらしい。大人を手玉にとるためにわざとそういう風に演技してるって。
確かに普通はこういうことをしないのかもしれない。この子が意図的にこういうことをしてるってのはあるかもしれない。だけどそれの何が悪いって言うんだ。この子が僕達との関係を良好に保つために一生懸命考えてそれを行動に移そうとしてることの何が問題なんだ。この子の努力を『あざとい』なんて言葉で蔑むことに何の意味があるのか僕には分からない。それを言ったら僕のこの子に対する態度だってただのあざとい演技ってことになってしまうと思う。
でも、それでいい。僕たちはそうやって、その時その時の自分の正直な気持ちを伝えようとしてるだけだ。たとえそれがちょっと不自然だったとしても、相手を騙すためにやってるんじゃなかったらそれでいいじゃないか。こうしてお互いに穏やかになれるなら、それはきちんと意味のある大切なコミュニケーションだと僕は思うのだった。




