三百十四 千早編 「叔父さん」
沙奈子の誤解も解けて、あの子自身が千早ちゃんの幸せを願ってくれてることも確認できて、僕は自分がすごく落ち着いていくのを感じてた。
こうやって、僕にとって一番大事なのは沙奈子だっていうのをしっかり伝えていかないといけないっていうのを改めて思った。でないと僕は、兄ばかり贔屓して僕を蔑ろにした自分の両親と同じことをしてしまうことになる。それはマズイ。
そんな風に自分の駄目な部分も確認しつつ、それを改めていくことを意識しつつ、僕はこの子と一緒に生きていく。この子がいつか、僕の下を巣立っていくその日まで。
翌日の火曜日から金曜日までは、また特に何もない平穏な毎日だった。それを味わうように僕たちはお互いの顔をしっかりと見て言葉を交わした。何気ない他愛ない会話が沁み込んでくる。一緒にいられない現実を和らげてくれる。
沙奈子の様子もまた落ち着いた感じで、一緒にお風呂に入る時も、少し照れたような感じはしつつも大きな変化はなかった。まあそれは僕が気にしないようにしてたからっていうのもあるかも知れないけど。
絵里奈と玲那の方は、着々と出品をしていってるらしい。さすがにすぐには売れないけど、反応はあるらしかった。と言うのも、絵里奈が大学に通ってた頃に売ってた服を気に入ってくれた人が、本人かどうか確かめてきたってことだった。『楽しみにしてます』って言ってもらったらしい。そうか、ファンがいるんだ。すごいな。
沙奈子が作ってるドレスの方も、前回のものよりもかなり順調なペースで進んでるみたいだ。玲那のことが決着ついたからだろうな。この調子だと来週中には完成して出品することになるって絵里奈が言ってた。
千早ちゃんも、沙奈子が言うには学校でも元気だし、確かに山仁さんのところで顔を合わせても元気そうだった。たぶん、家の方も千早ちゃんの感じてる範囲では上手くいってるんだろうな。
そういう諸々の上で、僕には少し緊張感もあった。だって、明日はついに絵里奈の叔父さんに会いに行く日だから。もう完全に、彼女のお父さんに初めて会いに行く感じだと思う。
「恰好は普段着でいいですよ。叔父さんも堅苦しいのは好きじゃない人ですから」
絵里奈はそう言ってくれてるけど、どこまでそれを真に受けたらいいんだろう。僕としてもこういうのはまったく初めての経験だから、まったく分からない。
「私も初めてだから、とにかく落ち着いていきましょう。いきなり怒鳴りつけたりするような人じゃありませんよ」
クスクスと笑いながら、絵里奈はそう言ってくれた。それを信じたい。さすがに夜もすぐに寝付けずに悶々としてるうちにいつのまにか寝てて、気が付いたら土曜日の朝になってたのだった。
朝はとりあえずいつも通りの感じで予定をこなして、沙奈子の午前の勉強が終わったらついに出掛ける。
普段着とは言われたけどやっぱり本当に普段着で行く勇気はなくてスーツになってしまった。
「お父さん、お仕事行くみたい」
って沙奈子にまで言われて、苦笑いしかできなかった。
とにかく私鉄の最寄り駅まで行ってそこから電車で高槻市駅に向かい、絵里奈たちと合流する手筈だ。絵里奈たちは京都駅の方が近いからそっちから向かうことになる。京都駅で合流して一緒に行っても良かったんだけど、なるべく乗り物に乗ってる時間が短い方が沙奈子の負担も少なく済むから別々に行くことになった。
酔い止めは飲んでもらってるから大丈夫だとは思いつつ、沙奈子の様子を窺う。でも薬が効いてるのか問題はなさそうだ。
高槻市駅で降りてスマホの地図アプリを頼りに待ち合わせの場所に向かう。そこは回転寿司店だった。先にそこでお昼にしてから絵里奈の叔父さんのところに向かうことにしてたんだ。
僕たちがその回転寿司店を見付けた時にはもう絵里奈と玲那はついていた。あの大人メイクでばっちり別人顔に決めた二人が笑顔で手を振って迎えてくれた。そのままお店に入って回転寿司を食べて、いよいよ叔父さんの家に向かうことになった。
15分ほど歩いたところにあったそれは、ちょっと古びた感じの平屋建ての一軒家だった。絵里奈が門扉を開けて中に入ると、庭と言うには小さな玄関前のスペースに、小さな子用の乗り物とか遊具が幾つも並べられてた。もしこの家の子のだとしたら随分と子だくさんだなとも思えるけど、静かで小さな子がたくさんいるような雰囲気はなかった。
門扉のところでも見たのと同じ表札が、玄関の横に掲げられてた。
『山田』。確かに絵里奈の旧姓と同じだ。ここが叔父さんの家ということか。
チャイムを押すと、玄関の鍵が開けられて、中から現れたのはまるで熊のような大きな男の人だった。たぶん、180は軽く超えてると思う。
「やあ、よく来たね絵里奈」
その男の人は絵里奈に向かってそう言った後で僕の方を向いて、
「君が達くんか。絵里奈から話は聞いてるよ。本当によく来てくれたね。まずは上がって一休みして」
と僕たちを迎え入れてくれた。大きな体をしてるけどすごく当たりの柔らかい、山仁さんに似たタイプの人だと感じた。
家の中も静かだった。小さな子供の姿も気配もない。ただ、子供用の玩具らしいものはいくつも置かれてた。
「ごめんね散らかってて。今日はたまたま誰もいないけど、うちでも土日や祝祭日、夜間に子供を預かったりするからついついそういうのが増えてしまって」
叔父さんは申し訳なさそうに頭を下げながら柔らかい感じで笑った。それを見て、僕の隣にいた沙奈子の緊張がフッとほぐれるのが分かった。絵里奈の叔父さん。つまり沙奈子にとっては大叔父さんにあたるその人が自分にとって警戒するべき相手かそうでないかを感じ取ったんだと思った。警戒を緩めても大丈夫な相手だってね。
僕たちが通された、和室の真ん中にテーブルが置かれたリビングにもやっぱり子供用の玩具が並んでた。まるでこの家自体が保育園のようだとも思った。いや、子供を預かることがあると言ってたから、実際に保育園として機能してるのか。
「落ち着かないかも知れないけどゆっくりしてて。みんな、オレンジジュースでいいかな?」
そう声を掛けられて僕は慌てて「あ、どうぞ、お気遣いなく」と社交辞令を口にした。そんな僕を見て叔父さんは、
「そんな緊張しなくていいよ。ここは絵里奈にとっても実家みたいなものだから。寛いでほしい」
だって。
叔父さんがジュースを用意するために奥へと入った間に、僕たちはそれぞれ座布団に腰を下ろさせてもらった。でもその時ふと気付いた。さっきから絵里奈がほとんどしゃべってないことに。
すると僕の顔を見た絵里奈が、
「叔父さん、私のこととなるとちょっとデリカシーのないところがあるから、何言われるかと思ってひやひやしちゃって…」
って。実は昔のことをいろいろ言われるんじゃないかと身構えていたらしかったのだった。




